押尾裁判への疑義
今日9月17日、押尾裁判の判決があった。
遺棄罪か遺棄致死罪かが判決の岐路となったようだ。
以下私見を述べる。
二人は会うなりMDMAを服用し、異常な精神状態つまり異常な恍惚状態のもとで、セックスを楽しんだものであろう。それが一回か、数回にわたるのか知りえないが、本件のような場合、行為を重ねことによって死の危険が高まることは医学的に明白である。
押尾氏はすでに行為中に相手の女性の状態が、いつもの場合と違ことを認識していた可能性が高いとみるべきではなかろうか。それが死につながるかどうかの認識については、あえて問題としないにしても、裁判経過を通して明らかなのは、当初から救命の意思、情念がなかったということであり、これが極めて重大な判断材料として考慮されるべきではないか。
行為後程なく、女性が異常状態に陥ったように仄聞するが、果たして異常は行為中にはまったくみられなかったのであろうか。麻薬常習者である押尾氏は、他の女性とも同じような薬物投与によるセックスを経験している。ゆえに、行為中に相手女性がいつもと違う状態に陥っているとの認識があったことは、十二分に推定されるところである。
一方、検察側、弁護士側からそれぞれ医師の証言があった。蘇生の可能性について80-100%、あるいは10-40%などの鑑定証言があったようだが、これらの証言自体がかならずしも適切なものとはいえない。そもそも服用量、服用時間、刻々変わってゆく容態経過などが正確に把握できていない上での判断であり、いわばパラダイムの無い、つまり論拠が確定していない証言といわざるを得ない。したがって、確度の高い判断材料とするのは適切ではあるまい。
重要なのは、すでに行為中に何らかの異常が、つまり結果的に死に至らしめるような状態が出現しており、この異常状態を認識していたはずだ、ということに大きな力点をおくべきではないか。
押尾氏の姿勢には、冷酷非情な自己保身以外に、相手の生存・死亡への配慮はまったくみられず、救命第一とすべき人間として当然の行動を、終始欠くものであったと判断される。
異常事態に遭遇した場合に取るべき救命行為の第一歩たる、救急車の要請も行っていないばかりか、現場を離れるという考えられぬ行動をとっている。こうした一連の行動から、いかなる事態になろうとも、押尾氏には、はじめから女性を救命するという意思がなかったもので、かぎりなく救命の可能性を遠ざける行動に終始していたことは明白である。かくして、生命より自己保身を優先し、おのれの麻薬常習を隠蔽するために、あきらかに女性の生命を失わせしめたものである。
まったく救命の意思を持たない人間の前に、女性はむなしく死へと遺棄される道を辿らざるを得なかった事案であろう。
取れるはずの積極的な救命措置を講ずることもなく、死に至らしめた罪は決して軽くない。遺棄致死罪の適応が当然ではなかろうか。