この間、久しぶりに下田の玉泉寺を訪れた。昔と違い海が遠くなったようにみえる。民家が密集したためであろう。
いうまでもなく玉泉寺は、日本におかれた最初の米国領事館である。そのとき領事としてやってきたのが、タウンゼント・ハリスである。砲艦外交もどきで開国させたベリーに続く外敵、くわえて唐人お吉の伝承などもあって、ハリスの印象はすこぶるいけない。
わたしが訪れたのは暑い日であった。ふと、庭の石碑に目をやると、こんな文章が刻まれていた。そして最後の文字に私の目は釘付けになった。
Undoutedly beginning of the end. Query,_if for real good of Japan?
疑いもなく新しい時代が到来するだろう。だが、これが本当に日本のためになるかどうか、わたしにはわからない。
勝手な訳である。ところで、以前からハリスという名前にある種の違和感を抱いていた。英国風ならharrington,harry,harrier等々。ハリスとなると、どうもしっくりしない。
そこで寺の若住職に、米国人ではないのでは?少なくともEngland系ではないのじゃないでしょうか?と聞いてみた。しばらくすると、一冊の書を手にもどってきて、ウエールス人のようです、英国にはなにか宿意のある人のようです、と答えてくれた。
それを聞いて先ほどの訳となった次第である。ウエールスもスコットランドもともに英国に征服された国である。凄惨な事件が今も語り継がれている。こうした歴史が血にながれる人たちにとって、英国への何がしかの遺恨が、いまだに残っているとしても不思議でない。
滅び行く人たちへの哀歓は経験したことのない人にはわからない。国土に戦火を見ない米国のような国民には、他国人への哀歓の情を抱くことはないのではないか。イラク、アフガンへの救援・救済と称する行動が、如何に不毛に終わるか、よくよく考えてみてはどうだろう。
石碑に刻まれているのはハリスの当時の心境を忠実にあらわしていると思われる。
ハリスが感想文を書いたのは、寺の庭に10数メートルのポールをたて、星条旗を翻した直後のことであった。このポール建立には予想外の困難があったとみえ、村人10数人が応援に駆けつけ、水兵を助けてようやく立てることができたようだ。安政三年(1856年)八月六日のことである。
ところで、ペリーのことは比較的よく知られているが、ハリスはなぜか二番手。だが、14か条からなる日米修好条約締結の実務者はハリスであった。
わたしのハリスにたいする人間観を一変させたのは、領事として赴任し、米国国旗を掲揚したときに認めたこの感想文であった。
見知らぬ日本、はるか異国の日本人にたいし、ある種の共感を抱き、優しさを滲ませる言葉を残していることであった。
最晩年はニューヨークの下宿で、歴史に残るほどの業績をあげた外交官に似ず、人知れず死亡するという恵まれぬ最後であったが、今も人間的にはこよなく素晴らしい人物であった、と後世に語り告げられるべき人物である。日本と米国を結ぶ友好の人物として再認識させられた。
現在の日米交渉において、ハリスのように相手を思いやる人材がいることを願ってやまない、
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