中国政府は凶暴化、日本は豹変しなければ
中国のことわざに君子豹変というのがある。君子といわれるほど偉いから、変節するのだというのが本義だが、君子と嘲られるほど低俗な人間だから、変節するのも当然という見方もある。
近年、中国のわが領土尖閣諸島周辺海域への、無謀きわまる侵犯事件以来、日中間には不穏な空気が張りつめるようになった。
だが最近、中国政府にいささか変化が見られるようになったように思われる。中国外務省報道官の姜さんは、眼鏡ごえにヒステリックな面持ちで、日本非難の声明を繰り返していたが、ここにきて気味の悪いほどおとなしくなった。中国政府もいささかやりすぎたと思うようになったのか、思わぬ國際批判の広がりに慌てたためか。
かねて、潮騒(困った隣人中国)で、中国政府の滅茶苦茶な行動が、かならず世界の指弾を受け、中国の政府・国民の利益にならぬことを指摘していたところである。今、そうしたことが現実になりつつあるようだ。
だがここで、われわれ日本人が忘れてならないことは、中国政府の軌道修正がたんなる微調整に過ぎず、領土を含む本来の利益追求・版図拡大の野望が、すこしも変わっていないことだ。すでにかなり野望の手の入っているアフリカのみならず、近頃はヨーロッパ、ギリシャあたりまで触手をのばしはじめているようにみえる。
ゆえに、中国政府が多少おとなしくなったからと、安堵の胸を下ろしていているようでは、とんでもない認識不足というべきものである。
振り返って考えてみれば分かるように、中国は国力の整わない20年ほど前まで、しばしば口にしていた外交の題目は、覇権主義の排除ということであった。ところが、これこそが中国が心底に抱く核心的な野望であり、これを隠蔽するために、あえて唱えていた狡猾な外交姿勢であった。
それゆえ、国力が整った今、領土保全などと称し平然と他国を侵害する、覇権主義・帝国主義に邁進している。かねて隠していた牙をむき出したのである。
彼らが使う「核心的」に表徴される野望は、たんに領土的野心にとどまらず、すべての分野、資源・経済・財政・国際金融・知的財産・文化・教育などの広範にわたる世界制覇が、「核心的」という言葉に包含されているのである。
同じ土俵の国家ならともに協調の道を歩むこともできる。しかし、中国という国はおよそわれわれのような民主国家とは違い、独裁的覇権主義の国家なのである。世界平和の構築のために労を惜しまぬ日本国家が、中国政府と付き合うのはきわめて難しい。
中国はれわれには考えられない国家である。一般常識はもとより国際ルールからも逸脱し、道理、秩序のまったく通じない、とんでもない国家が中国なのである。尖閣諸島の領有権を主張して領海侵犯行動をみるまでもなく、また、高速鉄道建設に他国から多くの技術導入をしているにもかかわらず、恩にきるどころか、平然と自前の技術だと主張し、驚くべきことに特許申請にまでおよぶ厚顔振りである。およそ想像を超える無恥を平然と行える国なのである。
この高速鉄道の列車が大変な事故を起こした。ところが、原因究明に欠かせない車両の保全を図るどころか、車両を埋めてしまうという理解を超える行動をとる。事故究明に欠かせないはずの車両を何故埋るのか。共産党政権の面子をたもつためなら、民衆の命などどうでもよいという、中国共産党政府の姿勢が露呈されているようだ。
今や、日本国のまわりには北朝鮮についで、このような厚顔無恥・無謀な国家が現出してしまった。
この現実はわが国の将来に深刻な問題を想起させずにはおかない。一夜にして民衆を扇動し狂騒の渦に巻き込み、激烈な世論を沸き立たせ、無謀な行動へと走らせることのできる、共産主義国家中国の存在を慎重に注視してゆかなければならない。
しかしながら、これにたいする日本政府の対応をみると、およそ将来を見通した戦略があるようにはみえない。実効性ある具体的かつ長期戦略を視野に入れた発想がない。
そこで、対中国への長期戦略として次のことを提起したい。日米の緊密な連携と独自の戦略核計画の二つである。
日米の緊密な連携
従来の政治家が考えてきたような一方的な日米協調体制ではない。日本の利益を最大限尊重する協調でなければならない。こうしたことは、国家間が協調するうえで至極当たり前のことなのである。
したがって、沖縄基地問題の対処法も、沖縄住民の民意に反する解決策など存在しえない。一方において、米国も現下の世界情勢にあって、日本国民の反対を押し切ってまで、自己主張を通すことの不利益を認識すべきである。
近年の兵器の近代化はすざましく、かならずしも沖縄に米軍基地を置く必要性は低下しているのである。たとえ多少の地勢学的不利があろうとも、沖縄に基地をおく絶対的理由はないはずである。
外交はメリット・カードを如何により有効に、デメリット・カードを如何により小さくするかである。当方のメリットは他方のデメリットである一方、やり方一つで逆にひっくり返ることもある。一枚のカードに表裏があるように、使い方ひとつで逆転することだって起こりうる。
今回の中国の尖閣諸島周辺騒動をみて、米国は早速メリット・カードを出してきました。米軍の沖縄基地が日本防衛に如何に必要か、と日本人に認識させる好機とみたカードである。しかし、これをそのまま米国のカードとするようでは策がなさ過ぎる。それではいつまでたっても二流国家だ。
北朝鮮・イラン・イスラエル・インド・パキスタンのような国でも、強かなカードを繰り出す知恵があり、それぞれ目的を完遂している。日本政府、政治家には、もっと知恵のあるカードの出し方を工夫してほしいものだ。沖縄に固執する米国の戦略が、将来の日米関係に好ましいものでないことを、外交、政治、経済、両国民の感情などを勘案し、そこにかならずお落し所があるに違いない。
米国の軍事基地すべてを日本国外に移転させること。これこそが将来にわたる日米協調の礎石との認識が共有できるまで、両国の政府・政治家の真摯な議論と叡智ある政治決断が望まれる。
以上のような主張をしても、おそらく米国は耳をかさないかもしれない。日本の政府・政治家、外交官の覚悟のなさが見抜かれているからです。
ところが、日米ともに利益となるカードがあるのです。それは、日本が自前の戦略核を装備する決意を示すことです。前段に述べた中国の無謀な台頭が、将来、必ずアジアしいては世界の安寧秩序維持の重大な障害となる、との共通認識が形成されれば、日本の戦略核装備の必然性が容認されるどころか、むしろ米国にとっても歓迎すべきこととなるのです。このあたりの局面を展開できる政治家、外交官が、今こそ日本に求められているのではないでしょうか。
戦略核計画
本小論の表題を君子豹変としたのは、日本が国是としている非核三原則を改め、核武装国家へと豹変せよ、という意味である。
戦後つくられた日本国憲法は、人類が到達すべき究極の人間社会を志向する、先例をみない崇高な指針・典範である。成立の経過・背景は別として、これを維持・遵守せんとする日本国民の超然たる精神性に、大いなる誇りを感じておりました。ことに、九条の他国を攻撃しないというくだりは人類至高の姿です。
ところが近年、こうした至高の理想像が通用しない事態が発生しています。尖閣列島周辺海域で、暴挙、理不尽・非礼な干渉を行う隣人が突如出現したためです。これに対抗するには核武装するほかに方法はありません。
試みに世界地図を広げてみてください。東京を軸にコンパスを回すと、西のパキスタン、インドからはじまり中国、北朝鮮、ロシアとつづきます。これらはすべて核戦力保有国です。すでに物騒な北朝鮮に加え、日本の脅威となってあらたに現れたのが中国です。世界で第二、三位の富と知能、技術、勤勉、正直、温和を誇る日本国は、まさに、強欲な空腹感をかかえる狼、熊に囲まれているのと同じです。彼らにとって高度の技術、勤勉な国民性の日本はきわめて好餌で、これからも、なにかにつけ干渉、妨害、脅迫などの手段を弄して、襲ってくることは間違いありません。
かつて、鄧小平氏が口にしていました。
「・・・この問題は次の世代に任せましょう」
と。この中国人の本音は、「次の世代の武力が整うまで、・・・そうなれば自ずと片付く」という意味です。鄧小平氏の脳裏には、領土などすべての問題は武力によって片付くという考え方が根底にあったのです。ですから、国力を獲得した現在、西沙諸島、南沙諸島などで、国際法を無視する勝手な領海設定を平然とおこなうことになったのです。まさに彼らのいうところの核心的意図の遂行にほかならないのです。こうした現実を見れば鄧小平氏の真意がお分かりになるというものです。
こうした国々を周辺にもつ日本は、きわめて不自然、不安定な状態にあるのです。欲望の解決手段として武力的恫喝が必然の行動となります。われわれは核攻撃の脅かしのもと、恐怖の国土で生存してゆくしかないのです。
今の日本には核攻撃を防ぐ術はありません。今回の尖閣列島事件からもわかるように、すべて米国頼みという姿勢には、当然のことながらおのずと限界があり、空しさ・危うさが残るだけです。やはり、自国の防衛はみずから行うという、あたりまえの覚悟がなければ、国を守ってゆくことはできないということです。
核から身をまもるには核装備以外に方法はないのです。核攻撃に対する反撃核能力の有無だけが、唯一の抑止力となるのです。これは今までの強国が主張・実践してきた国家戦略の根本原理です。したがって、日本はこの際、いかなる困難・障壁があろうとも、核武装をしなければならことを認識すべきでしょう。
核の世界にはNPT(核拡散禁止条約)という縛りがあります。核兵器保有が許されるのは、米、ロシア、英、仏、中国の五カ国だけで、その他の国の保有は禁止するという規約です。当初から、この条約は正義・平等の理念からいちじるしく逸脱したものであり、ただ核拡散防止という、一見、もっともらしい理屈のもとに、たんに保有国の独占性を維持するだけの、きわめて利己的・独善的な規約です。
ですから、この条約にはインド、パキスタンが反対して加盟せず、結局、現在は核保有国になっています。また、かねて核保有疑惑の濃いイスラエルも、国際原子力機関(IAEA)天野局長の再三にわたる加盟勧告にもかかわらず、拒否を貫き通し、現在に至るもなお核保有の有無について沈黙をつづけています。答えないということは、イエスであると世界の国々は認識しています。
その一方、米国はじめ西欧諸国は、イランには核開発の疑いをもって非難声明をくりかえし、貿易制限などの制裁を課しています。米国がイスラエルには許しイランを非難するというような、ダブル・スタンダードの正義なき外交姿勢をつづけるかぎり、核秩序を真摯に遵守しようとする意欲は失せてしまいます。多くの国はたんに米国と歩調に合わせ、都合のよい話し合いをしているだけのようです。これでは世界の核管理はできません。NPTの整合性、信頼性を取り戻すため根本的な見直しが強く望まれます。
さらに、この規約には保有国の義務が課せられているのです。保有国は非保有国への核武装支援をしてはならないと明記されていますが、米国はイスラエルに、ロシアは北朝鮮にという具合に核支援の手を差し伸べていました。これはNPT規約違反です。二大国が行っていることに世界は沈黙していたようですが、こうしたいい加減なことをしているから、非加盟国同士、たとえば北朝鮮とイランの間での核装備移転が行われてしまうのです。
またNPTはこうも謳っています。保有国は核兵器の削減さらに廃絶を目指す義務がある、と。こうした条約を真摯にうけとめ、誠実に履行の道を歩まない限り、世界から核を消滅することはできません。長い間、米ロ間で交渉が続いておりますが、廃絶までの道のりは遅々としおります。これではNPT履行違反の疑義もうまれます。都合のよいことだけを規約する条約で、みずからの義務を省みないようでは、正義の約束事とはいえないことになります。
このように、現在、NPT自体の存在意義、信頼性、整合性にかげりが生じています。パキスタン、インド、北朝鮮などでさえ、核開発のために多額の費用と、国際社会からの反発を跳ね除け、核保有国家になっております。自国の利益、危機回避、国威発揚のために、国際規約を反故にしても国益重視の姿勢を貫き通すのは、むしろ当然のことではないでしょうか。明日の食料に事欠く北朝鮮ですら、核保有国となっている事実を、もっと日本人は深刻に考えねばならないでしょう。あまりにも呑気過ぎます。
ついでながら、北朝鮮の新しい体制について触れましょう。人民が飢えているというのに、国民の知らないところから、突如、20台そこそこの青年が現れたようです。現れた青年の丸々と太ったメタボの体は、理性、慎重、情愛などの資質より、独善・頑迷、粗暴な資質を想起させています。一方、この兄ちゃんの前を行進する兵士のやせ細った姿たるや、何とも痛ましくも哀れです。北朝鮮の国民を待つこれからの苦難の道が偲ばれ、中国や北朝鮮のような恐慌独裁体制の恐ろしさに身がちぢみます。
この北朝鮮が六カ国協議で日米韓相手に悪知恵の限りを尽くし、あの手この手で援助交際をつづけさせた挙句、ついに核兵器の開発を成し遂げるとは、何とも言いようがないほど見事な悪女ぶりです。ふりまわされた日米韓の鼻下長男子の皆さん、如何にせん、と申しあげたい。甘すぎます。米国の対北朝鮮外交が児戯に等しいほど幼稚にみえてしまいます。これからも駄目でしょう。米国に付き合う拉致問題などを抱える日本、韓国は、まことに辛いことです。
さて、ここで重要なことは、北朝鮮ばかりでなく今回の中国の暴走を、加盟国日本の周辺における異常事態の発生と捉えることができることです。異常事態の発生はNPT脱退条件となるのです。よって、日本は核武装の十分な資格があります。しかし、規約がどうのこうのという前に、現実に核の脅威に曝されている国家として、脱退は当然あるべき自存・自衛の権利です。ここに、日本政府、国民の現状認識と覚悟がつよく求められ所以があります。
核装備するに、遠距離射程のミサイルは目下のところ必要ありません。中国を射程距離におさめられる程度の核ミ
サイルを装備すればよいのです。核で世界制覇などという大それた意思も、能力もありません。ただ、北朝鮮と中国からの脅威を抑制したいだけです。したがって、大型の核弾頭を装着することもありません。プルトニウム型の小型のもので十分です。この作成には今の日本の知識・能力をもってすれば、一ヶ月とかからないでしょう。また、こうした方法のほかに、少し時間と費用がかかりますが、精緻なSDI(戦略防衛構想)を構築するという選択肢もあります。
いずれにしても、中長期の確固たる国家戦略の確立を目指すという、国民の総意が結集されなければなりません。さらに、米国をはじめとする諸国の理解を得るために、莫大なエネルギーを要す事柄です。国家・国民が総力を挙げて邁進しなければならないのです。
話はそれますが、1895年、日清戦争後、両国の話し合いが下関の旅館春帆楼でおこなわれました。下関条約です。ここで、日本全権伊藤博文のあまりにも強固な交渉姿勢に、中国全権李鴻章は顔面蒼白となり、思わず、「ああ、苛酷、苛酷!」と叫んだ、と同席していた陸奥宗光の「蹇々録」は記しています。軍拡・膨張主義の時代背景もあったにせよ、外交の究極の力は鄧小平ならずとも国威です。国威は武力のなすところで、確固不動の国家間交渉の根本をなすものであります。残念ながら、日本の国威発揚はいま一です。もとより強力な軍事国家になる意思も必要もありませんが、前述するような核防衛能力を持つことが、現今の日本をとりまく情勢の対応策の捷径で,これ以外には良策はないと確信しています。今の為政者・外交官の気迫のガス欠状態を見るにつけ、伊藤博文らの爪でも煎じてもらいたい、と、つい思ってしまいます。
事が起こるたびに、米国の後ろ盾・庇護を期待し、なんらかの言質を得て安堵するような情けない国家、危機対応意識の乏しい国家、確固たる国策欠落の国家では困るのです。一日も早く、米国頼りの日本というイメージを払拭しなくてはなりません。そうでないと、中国ばかりか世界の諸国から、真の国家としての認知も威信も得られません。
もし、米国が日本を本当に同盟国と考えているとするなら、もし、中国、北朝鮮をはじめとする、かつ、将来の仮想敵性国ロシアに対する同盟国と考えているとするなら、当然、日本の核武装にすすんで賛意を表して当然のはずです。現今の極東を地政学的、戦略的に冷静に俯瞰し、日本国民の感情を斟酌しているとすれば、日本の核武装は至極当然の帰結だからです。しかも、これによって受ける米国の利益には計り知れないものがあるのです。まず、極東の戦費の大幅な削減が可能になるばかりか、戦略上の有利性が強化されます。また、そうなるように、日米の政府、軍事専門家が協議を尽くせばよいのです。日本政府にとっても、今までの米軍への、ある意味不毛な、人的物的供与・資金援助が、どれだけ削減することができることでしょう。 なかんずく、米国にとって最も注目すべき利点は、極東の暴発によって招来されるかもしれない、米国への核攻撃を、未然に、かつ労せずして防衛し得る有効な戦略であるということです。
極東の秩序を保つため、あたらしい深化した戦略構想が、今ほど日米両国に求められている時はないのではないのでしょうか。
付記: 未知識の分野かつ老耄の、国を憂慮する小論です。諸般、ご容赦のほどを
投稿情報: 大坪雄三 | 2010年10 月11日 (月)
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