頼朝の生活は、清盛を警戒する日々でありました。
そんな中、ふつふつと湧き上がる源氏再興の夢は尽きることがありません。 一方、頼朝はなかなか用心深い性格で、心の内はかたく閉ざして人に明かすことはありません。かつて父義朝の家臣であった者でも、今の平家の世に心変わりがないとはいえません。その心底を計れませんから、つねに油断できなかったのです。 ことに流刑のはじめころには、心おきなく話せる相手は、わずかに近侍する安達盛長ぐらいであったでしょう。 こうした孤独な頼朝でしたが、次第に、忠節無二の武士にも恵まれていくようになります。修験道者として伊豆の山野を歩き回わり、伊豆の地勢を知りつくす土肥実平、それに関東周辺の豪族やその息子たちの、工藤茂光、岡崎義実、天野遠景、宇佐美祐茂(すけもち)、加藤次景廉、小中太光家などが、頼朝を慕って集まってまいります。 宇佐美祐茂は宇佐美を治める初代の豪族で、伊東祐親の親族です。頼朝の敵と心を寄せる者は、おなじ血族の中でもかなり交錯していたようです。
頼朝は彼らを引き連れては伊豆山野をかけめぐり、まき狩りなどを催すこともありました。伊東祐泰が工藤祐経に暗殺される事件(曽我兄弟あだ討ちの発端)の前におこなわれた、相撲大会にも頼朝は出席しています。
さらに、周辺地域以外からの応援もありました。京都の下級役人三好康信や三浦半島の三浦氏、下総(千葉)の
千葉氏の息子たちです。かれらは京都政情の近況を知らせてくれていました。ですから、頼朝は遠い伊豆にいなが
ら、京中枢部の情報を迅速かつ正確に知ることができたのです。これは平氏打倒を志す頼朝には、欠かすことのでき
ない貴重なものでした。
一方、平家方の頼朝の敵となりうる武士には、相模(神奈川県北部)や武蔵(埼玉県)の大庭景親、和田義盛、
梶原景時、畠山重忠、下総(千葉)の藤原忠清、伊東(伊豆)の伊東祐親、さらに、頼朝のすぐちかく、清盛の命によ
って伊豆代官(伊豆地方長官)に任命された山木兼隆などがおります。もちろん、眼と鼻の先には北条時政がおりま
したが、時政は伊東祐親と違って、情勢判断には違った目をもっておりました。なかなかの策略家・政治家でありま
して、頼朝を見る目には他の平家武将とは違うものがあったようです。
というのは、伊豆の土豪に過ぎないのに、後白河上皇の覚えにものぼるほどの外交手腕の持ち主で、京都中枢の裏事情についても知悉する立場に居たのです。それゆえ、平家の内輪の事情に精通し、その衰退の予兆のようなものを、いち早く感じ取ることができていたと思われます。
こうした生活を送っている頼朝が、二十四、五才の青年になったころ、安達盛長や伊東祐清を通じ、伊東祐親の
娘八重姫を識るようになります。頼朝に近侍する伊東祐清は八重姫の兄です。
早速、頼朝は再三にわたり恋文を送るようになり、やがて、父親が京都へ上洛した隙に、伊東の松川近くの、祐親
の屋敷から5百メートルほども離れていない音無神社の境内で、たがいに逢瀬を重ねるようになるのです。
源氏の正統な嫡男であり、京の雅を備える美男子頼朝ともなれば、八重姫の恋心も一方ならぬものであったことでし
ょう。父の怒りも、清盛への惧れも、二人の相愛の炎を消すことはできません。やがて、千鶴という男子が出生しま
す。頼朝の嫡男というべき子供です。 幸いなことに、この間、父親が大番役(京都御所護衛役)で京都へいっておりましたので、二人の仲は誰一人に
も気兼ねせず、睦ましい日々がつづきます。兄の祐清はむしろ二人の仲を喜ばしく思っていたのです。祐清の妻と盛
長の妻は、ともに比企未亡人の娘ですから、互いに義兄弟ということになります。
ここで頼朝の流罪の場所について、あらためてお話しいたします。
一般に、流罪地は蛭が小島とされていますが、東海岸伊東が流罪地である、とする異説のあることはすでに述べまし
た。
結論から言えば、どちらも正しいということになります。つまり、時期によって違いがあったということなのです。
はじめの流刑地は伊東祐親の屋敷の近くであり、伊東屋敷と松川の中間あたりの北の御所です。その後、八重姫との
相愛が祐親に咎められ、伊豆山権現に逃亡後ややあって、蛭が小島に移っていったというのが真実であります。です
からいずれの地も正しいのです。
古文書の山木兼隆襲撃が、蛭が小島の屋敷から行われていたと明記しており、その模様が詳しく述べられており
ます。たとえば、襲撃時、成否の合図である山木屋敷の火事を待って、高い木に上り模様を眺めていた、などの生々
しい描写があります。それで、いかにも蛭が小島が最初から流罪地であった、と誤認されていたのでしょう。
さて、二人の幸せは長くは続きませんでした。やがて、伊東祐親が京都からもどってきますと、事態は一変して
しまいます。まず、帰京した祐親の眼に入ったのは、座敷で無心に遊ぶ見慣れぬ三才ほどの童子の姿でした。平清盛
の信任厚い忠義者の伊東祐親ですから、童子が頼朝の子と知るや激しく動転し、からだ中が絞られるような怒声を発
します。
「頼朝は清盛様から預かった罪人ではないか!かような者と子をなすとはもっての外、それくらいなら、いっそ非人、乞食にやったほうがましだ。事が清盛様のお耳に達したら、一大事じゃ。わが所領没収はおろか、一族断罪は避けられぬ。されば、ただちに頼朝を成敗し、子は簀巻きにして松川に流せ!」
と命じます。これを知った兄の祐清は、早速、頼朝を伊豆山権現へ逃亡させるのです。
頼朝は女性ばかりでなく、伊東祐清や政子の弟義時などにとっても、憧憬の的だったのです。
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