ところで、女塚の石碑には重要な記述があります。千鶴は殺されずに、家臣に伴われ甲斐(山梨県)武田一族のもとへ逃れた、というものです。
千鶴生存説は従来からもありましたし、古文書のなかにもそれらしい記述があります。
伊東祐親にしても、娘の産んだ子が憎いはずがありません。ただ、源氏の御曹司というだけのことです。祐親の懊悩は深かったでしょう。
そこで表向きは、松川上流の轟が淵に簀巻きにして流した、ということにした可能性は否定できません。本気なら屋敷内で殺すこともできました。それでは、あまりにも惨いということで、はなれた川に流した、ということにしたかもしれません。
しかし、祐親の性格からして、人知れず甲斐へ逃がすということも否定できません。
この千鶴らしい人物が、後年、頼朝に近侍する若武者として登場してきますが、この武者こそ頼朝と八重姫との間の子千鶴で、鎌倉家中並ぶものなき御寵愛を蒙っていた、と史実は伝えます。たいした武勲もないこの若武者に、頼朝は九州3カ国の大国を与えているのです。肉親の情なくしてはなしえないことではないでしょうか。これが、九州島津家の始祖島津忠久というのです。
頼朝政権下でこんな破格な恩賞を賜った例はありません。晩年の千葉常胤でさえ長年の功績に鑑み、ある土地を賜るよう懇願していますが、頼朝は与えていません。千葉常胤といえば、幕府草創の功臣のひとりです。
ところで、この落胤説を裏付けるように、鎌倉の鶴岡八幡宮の東1キロほどのところにある頼朝の墓石の、左斜めうしろに寄りかかるように、島津忠久と刻まれた墓石がありました。平成17、8年ころまでの話で、今は何故かなくなっています。
また、女塚の石碑には、事件後、伊東祐親が頼朝を北条時政のところへ追いやった、と記されていますが、これは間違いです。伊東祐親の三男祐清の危急の知らせをうけ、頼朝が伊東から逃げだしたのは事実ですが、この祐清はかねてより頼朝への敬慕の念が篤く、一所懸命頼朝を助けたのでしょうが、妹が絡む重大な平家への謀反事件ですから、誰にも知られず隠密裡に処理しなければならないはずです。北条時政のところへ送るなどは論外です。これでは伊東家にも北条家にも、累が及ぶようなことになってしまいます。
ですから、頼朝は伊豆山権現へ逃げたのです。頼朝もかねてより、万一の避難所として伊豆山権現が念頭にあったことでしょう。
追手の祐親の軍勢も伊豆山権現となると、簡単には攻め入ることはできません。権現は伊豆信仰の聖地であり、祐親の兵も攻撃をためらったからです。さらに、数百の僧兵を擁する軍事基地でもあったわけです。
一旦は権現に逃亡した頼朝ですが、ほとぼりの冷めた頃、北条屋敷から蛭が小島へと移ったのです。この間の経過に、北条時政が深く関わっていたことは勿論です。
この当時、頼朝に近侍していた人物は、安達藤九郎盛長、江戸太郎重頼、伊東九郎祐清らの三人、やはりいずれも比企未亡人の婿たちでした。
こうして蛭が小島に移った頼朝は、ほどなく、近在の良橋太郎入道の娘亀という女性を熱愛するようになります。
みなさんは多分、天下を制覇した頼朝という武将から、勇壮な姿を想像するかもしれませんが、実のところ、頼朝には剛勇な武士という事跡はほとんどありません。わずかに記録として残るのは、石橋山の敗戦時、佐々木高綱が身代わりとなって奮戦するなか、頼朝も弓を放って敵を倒したという事例があるくらいです。
しかし、つねに女性には優しい男で、亀を大変愛しておりました。
それは、鎌倉に幕府を開いたあとも忘れられなかったとみえ、政子を窺いながらも、鎌倉内に邸宅を構えさせます。ところが、時政の後妻牧の方が政子に亀のことを告げ口するのです。こんなことは京の武将では普通の慣習だったのですが、伊豆の田舎娘政子には通じません。まして、政子は当時としてはことのほか女権意識のつよい女性です。家来牧宗親なる者に命じ、亀の前の屋敷を焼かせるという、思い切った行動をとります。亀の前は無事でしたが、以後、恐れおののいて頼朝から離れてゆきます。
鎌倉中に大騒動をおこし、頼朝の顔に泥を塗るような大事件なのですが、頼朝は火付けの張本人牧宗親に、「これは政子殿に命ぜられたこと」、と平然と抗弁されると、それ以上詮議することはできませんでした。
もっとも、この牧宗親なる人物は、北条時政の後妻牧の方の父親だったばかりか、清盛に助命の嘆願をして、頼朝を死から救った池禅尼の弟でもあったのです。
頼朝政権がその死後、急速に崩壊し去っていった一因に、女性問題で悩まされつづけた政子の、頼朝への恨み辛みとともに、ひそかに政権転覆をはかる牧の方の策動などが加わっていたといえます。晩年の時政はすっかり後妻に篭絡されていたので、政子はわが子を犠牲にしてまでも、弟義時とともに北条政権樹立に邁進せざるをえないこととなったのです。だから、
源政子はなく、北条政子なのです。
さて、話を八重姫に戻します。
父の怒りに触れた八重姫は、屋敷の一室に幽閉されてしまいます。だが、時がたっても、頼朝への慕情はつのるばかり。まさに、寝ては夢か現か幻か、今はいずこ頼朝様、身を焦がすような毎日であったのでしょう。
やがて、頼朝が伊豆山権現から北条の地、蛭が小島に移っているらしい、という噂を耳にします。そこで、心ききたる侍女五人とともに、頼朝のもとへ逃亡する計画をたてます。伊東から韮山盆地へぬける山道は、今でも険しい森林・潅木の連続する山道です。女、それも豪族の娘などが、到底行けるようなところではありません。しかし、八重姫の心中を察する侍女たちは、かいがいしくも密に旅支度を整えるのです。おそらく、2、3人の下人もくわわっていたかもしれません。
やがて、一行はひたすら西を目指し峠を越えます。伊東を背に西に向かって横断し、韮山盆地に抜けようというわけです。等高線をご覧になればお分かりのように、伊豆半島の背骨をなす山並みが、北から南へと続いています。東海岸から、西海岸に抜けるには、この山なみをこえなければなりません。
一行は伊東を離れるや、すぐこの山なみの鬱蒼とした杉林に行く手を阻まれます。日暮れて遅く山をくだると、信じられない長閑な猫の額ほどの浮橋という村落に着きます。村人も50人を越えぬ村落でしょう。今でも、ほっとするような昔の日本の風景が広がっています。
ここで、八重姫の一行は山旅の疲れを癒したことでしょう。父親の追手のなかったことも幸せでした。兄祐清の計らいがあったのでしょう。
疲れを癒すまもなく、翌日、八重姫一行の前には箱根連山と天城山系を結ぶ、あらたな厳しい山道が立ちはだかります。つづれ織りに折れ曲がり、上ったかと思うと下る山道に、疲れは極限にたっします。でも、この山の向こうに頼朝様がとの思い一筋が、八重姫の脚の一歩一歩に絞るように力をあたえたことでしょう。
山の頂に達したあたりで道は左右に分かれます。右こそ頼朝様のいる北条の地と心ははやります。ここで、八重姫は一人の侍女を北条へ走らせます。残った八重姫と4人の侍女も、後を追うように山をくだります。
ところが、しばらくすると先に行かせた侍女の足早に立ち戻る姿がみえました。
侍女のかたわらに頼朝の姿のないのを見て、姫の胸ににわかに黒雲が立ち上ります。そして、侍女の報せ聞くや、呆然自失。顔面から血の気の引いた姫は崩れてしまったことでしょう。
「頼朝様は北条時政殿の姫、政子様とすでに結婚なされている、との由にござります、今、姫がこられても詮無いこと、と門前にて断られました次第」
という。
姫の体からすべての力が抜け落ち、頼朝を失った今、この世に未練の微塵も残っていなかったでしょう。頼朝を思う心が大きかっただけ、ショックも大きかったにちがいありません。姫は自害します。残った四人の侍女も姫の後を追います。
相手が平家の反逆者頼朝であり、父にも逆らった恋であったにせよ、あまりにも哀れな物語ではありませんか。可憐ですが、すこしぐらい八重姫に自己主張があっても、とつい思ってしまいます。
しかし、当時の情勢にあっては、如何なる行動をとったにせよ、八重姫の前途には、悲恋の運命しか残されされてはいなかったのではないでしょうか。江間小四郎(北条義時の幼名と同じですが、別人)に嫁したという説もありますが。
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