女塚と頼朝 1
今回は、頼朝の父義朝が清盛に敗れた平治の乱の結果、からくも死罪を免れ、伊豆流罪となった頼朝が、伊豆の地でどのような生活をしていたのか、興味ある史跡を訪ねることにします。
流されたのは、都からはるか離れた伊豆の韮山盆地の湿地帯、蛭が小島ということになっています。天城水系から発する狩野川は北上し、三島方面へ流れております。河川整備の整わなかった時代ですから、このあたり一体は広大な湿地帯で、ところどころに小島のような丘が点在する土地柄でした。ですから到底、人の住めるようなところではありません。常時湿っていて、おそらく蛭なども多かったのでしょう。それが地名の由来となったのではないでしょうか。
流人となった頼朝に許された住まいは、当初、掘っ立て小屋のようなものでした。ところがその後、武蔵国(埼玉県)のかつての乳母比企未亡人や、周辺の源氏武士などの援助によって、次第に屋敷らしい体裁が整えられるのです。13才から挙兵する34才まで、このあたりで生活していたことになります。
流刑地は蛭が小島という定説には異論があります。伊豆東海岸の伊東が流刑地ではなかったか、というものです。
伊東には伊東祐親という豪族がおり、南伊豆の河津あたりまで支配する大豪族でした。たんに、蛭が小島周辺を支配する北条時政とはくらべようもありません。親族には三浦義澄、曽我祐信(伊東祐親長男祐康の妻は、夫の死後、富士のあだ討ちで有名な男子二人(曽我兄弟)をつれ、曽我祐信の後妻となる)工藤祐経などの名だたる武将がおります。ですから、平清盛の命をうけ頼朝の監視役となる者としては、伊東祐親のほうが適任者といえそうです。また、北条時政も伊東祐親の娘を妻とし、北条第二代の執権北条義時を生んでいます。伊東氏の縁者となることが、この地方の豪族には大変に有利であった証拠です。このように伊東祐親の存在は大きかったのです。
さらに、これからお話しする頼朝の最初の妻八重姫も、伊東祐親の娘であり、二人の間には千鶴(丸)という、頼朝の子として如何にも相応しい名前の男の子いたのです。
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