生病老死ではなく、制老病死だ
80才になった今、若い頃に読んだいくつかの死生論が、近頃、しばしば脳裏を掠めるようになった。
生病老死という有名な言葉がある。生あるものかならず病をえ、老してて死す、というほどの意味だ。
生ある者かならず(肉体的、精神的な)病が付きまとうもので、生は病と道連れだ。
だが近頃、病では容易に死なない時代になった。心構えさえあれば、病を避ける手立ては多い。
人間の生理的寿命とされる120才も夢ではない、老化さえ防げれば。
では老とはなにか?
自己の持つ免疫力の低下ないし消失にはほかならない。老いを遠ざけるには、合理的かつ適切な生活サイクルを繰り返すことだ。これには適切な食物摂取とともに、肉体的ならびに精神的活性化がキーポイント。これらは恒常的なものではなく、つねに変動かつ循環すべきもの。適切な循環性あってこそ、自己の免疫力をより長く保たせることができる。ゆえに、精神的には緊張と弛緩、身体的には筋肉や脳の活性化を、適宜繰り返す循環性が肝要。
各栄養素の摂取は普遍的な理論にとらわれる必要はない。原則的には本能の命ずるまま素直に行えばよい。時にステーキを300グラム食べることもあってよいだろう。時に、一切魚肉を絶った生活もよいだろう。しかし、摂食の本質は、おのれが欲するものを食べること、これが原始の時代からの鉄則である。もとよりそこには老化を避けるための工夫(理性と理論)がなければならぬ。
私は、長寿の食生活の秘訣は、たんぱく質を大量の緑黄野菜とともに摂取することが基本とかんがえている。好んでチーズなども摂取している(文芸春秋臨時増刊号 79巻15号)。
むしろ他の栄養素はたんぱく質の添え物、つまぐらいに考える。
糖質(でんぷん類)は脳への唯一の栄養素として貴重だが、脳に支障のない程度の摂取でよい。幼少期から菓子類で腹を満たしているようだと、脳は間断なき過剰血糖によって、ぶどう糖代謝に変調をきたし、低質な脳に育ってしまう。
物事すべてがそうであるように、時に切迫した状態、飢餓状態も必要なのである。絶えず豊富なブドウ糖で満たされた脳は、低次元の働きしかできなくなるのだ。これをたとえれば、満ち足りた修験道など存在しないのと同じだ。飢餓や極限状態にあって、はじめて特殊の精神能力が啓発される。
脂肪は体構造に不可欠な栄養素である。しかし、現代人は不必要に過量に摂取している。血液検査をするまでもなく、肥満、体脂肪などで容易に自己診断できる。ただし、特殊の症例もあるので、血液検査が必要となることもある。
過剰なストレス、心の葛藤、怨嗟、欲望など、あるいは闘争、嫉妬、憎悪、悪意などは、もってのほかの人生サイクルだ。持続すれば、大抵免疫力が低下してがんになるか、心・血管がやられる。
人それぞれに、生来、ある種の人生行路の設計図のようなものが用意されている。もとより努力なくして何事もなしえないが、それでも人には限界というものが、存在することは厳然たる事実だ。いくら名伯楽がいたとしても、資質のないものには効用はすくない。
これをなんといったらよいか?人徳とでもいうか。人はそれぞれ生まれながらの人徳が備わっている。その中でも特出した人徳の持ち主が,上質の人生を生きることになる。
もとより、資質、天性とともに、努力と優れた環境(伯楽)との相乗によって、はじめて到達する昇華状態、すなわち、人智啓発の頂点たる人徳が形成される。
最後に、人それぞれの寿命・人徳にも限界がある、ということを付言しておく。その限界を厳然たる事実として認識することが、人生を楽しく健やかに生きる道である。
生あるものかならず病(肉体ばかりでなく、精神も含む)と向き合わねばならぬのだから、これに敢然と闘い克服し、死に確実につながるべき老化を、なるべく遅らせることが長寿の道である。