白洲次郎にゴルフ場を開けさせる
もう50年ほど昔になろうか。ある朝、義兄の誘いで軽井沢ゴルフ場へ出かけることになった。 天気はあまりよくなかった。夜中、雨がしょぼしょぼと降りつづいていたが、朝方になってようやくあがったものの、ゴルフ場近くの林道にさしかかると、あたりはすっかり靄につつまれ、車の先の見通しも危ぶまれるほどだった。道路わきの木々から散見できるゴルフ場は、白一色の空気につつまれ、いつもは見えるはずのグリーンも、どこにあるのか一向にわからない。これでは到底、ゴルフも無理と思えた。
ほどなくゴルフ場の駐車場に到着した。そこに、すでに二人の男が立ちわびていた。一人は既知の山田氏、もう一人は、はじめて義兄に紹介される石坂という青年だった。四人そろったところでロビーに入っていった。四人の姿を見たフロントは即座に、
「今日、ゴルフ場は閉鎖です」
冷たく言い放った。ところが、石坂氏が、
「白洲次郎さんいらっしゃいますか?泰三の息子なんですが」といったものである。
と、フロントは会得したか即座に席を立った。まもなく奥のドアが開くと長身の男があらわれ、ロビーのわれわれの方に寄ってきた。
くしゃくしゃの厚手のワイシャツに、スコッチ柄のチョッキを重ね、だぶだぶのズボンの裾を、これまたかなり年季の入ったゴム長靴に納めた、初老長身白皙の紳士が目前に立ちはだかった。われわれも170センチを越える身長だが、紳士の背ははるかに高く、見下ろす瞳は心なしか薄青色にみえた。鼻筋が通り彫りの深い端正な顔立ちは、ひょっとしたら日本人ではないのではと思わせた。何気ない着こなしのコーデイネイションにも、英国仕込の気風が濃密に漂っている。 紳士は四人のなかの石坂さんの顔をみるなり、
「お父さんは変わりないかい?」
と言ったものである。親しげな言葉から、二人が周知の間柄であることが明らかとなった。と同時に、小生ははじめて石坂氏が経団連会長石坂泰三の息子と知った。義兄の友人だから、そこそこの人間であろうとは思ってはいたが、ことさら細かいことは聞いていなかったのである。白洲氏が言った。
「今日はこんな調子だから無理だね」にべもない返事である。
「何とかなりませんか」
「無理だよ、石坂君、グリーン見えないぞ」
「方向はだいたい知っているんですがね」
石坂氏が食い下がる。
にやっと笑みを浮かべた白洲氏、
「君たちは誰だね」
石坂氏以外の三人に問いかけた。
義兄が、戦前名家の一員であることをあかし、山田さんが凸版印刷社長山田三郎太の嫡男と紹介した。最後に「これは親戚の医者です」と小生を紹介してくれた。
「ふーん」
といってから、白洲さん、
「まあ、ゴルフ場をみてみようか」
われわれも白洲さんの長靴が鳴らす、ぐしゃぐしゃという音についていった。たしかにグリーンは見えなかった。白洲さんはしばらくの間、スチックをグリーンに刺していたりしていたが、
「まあ、いいだろう。しかし、君たちだけだぞ!」
その言葉に、四人はしたり顔を秘め、ホールにもどって支度にとりかかった。
一番ホールに立つと、やはり100メートル先まで真っ白。グリーンもまったく靄のなか。打つ方向はもっぱら石坂氏任せである。小生以外の三人はゴルフの名手でもあり、ありえな無人の軽井沢ゴルフ場を心ゆくまで堪能していた。
だが、こうして始まったゴルフも、へたくその小生にはとてつもなく辛いプレイとなった。今だに、どこをどうやって打ったのか記憶にない。
だが、古武士さながらの白洲氏の姿だけは、強烈に脳裏に焼きついている。その人柄は知るよしもないが、体から発するオーラは凄まじく、マッカーサーにも毅然たる態度を失わなかった、古武士のような姿が今も清清しく心に残る。
近頃はこうした類の人が少なくなってしまった。
財界重鎮永野重雄は偉丈夫だった
ところで、この白洲氏が銀座のバーで、取っ組み合いの大喧嘩をしたという、考えられないような行動のあったことを後で知った。喧嘩のあったのは、時代を逆行し終戦直後のことである。おおくの日本人がすっかりGHQに魂を抜かれていた頃、白洲さん同様毅然たる気概をみせる日本人がいた。白洲氏の喧嘩相手となった、八幡製鉄会長、東商会頭となる永野重雄氏である。
その後の永野氏は、小生が勤務する千葉大学中山外科に入院することがあった。氏は幼少から柔道に親しんできたといわれ、当時50代後半であるにもかかわらず、ボディービルで鍛え上げたかのような、がっちりした骨格を筋肉質につつんだ、見事な体型の持ち主であった。決して美男とはいえないが、温顔のなかにもなみなみならぬ闘争心が秘められている。財界の重鎮というよりはアスリート、それも砲丸投げか重量挙げの選手のような、精悍な顔貌であった。病名は胆石である。
一方の白洲さんも180センチ近い偉丈夫だ。その二人がこともあろうに、銀座の一流クラブで取っ組み合いの喧嘩をしたというのだから、その様たるや、想うだに凄まじい。喧嘩の理由は、日本最大の広畑製鉄所を、ドル獲得のために外資に売却すべしとする白洲氏にたいし、そんなことは絶対にさせない、と頑張る永野氏との争いにあった。しかし、この軍配はどうやら永野重雄氏に上がったようだ。
永野氏が入院していた当時の大学病院のみすぼらしさに、さぞかし入院中の財界重鎮も辟易していたことだろう。ベッド数は70そこそこだが、個室はわずか3室あったかどうかというもので、無論、トイレ・風呂などもなく、壁もところどころ剥げ落ちるといった次第であった。
ところが、永野氏が入院すると翌日、その病室に電話機が二台も敷設されていたのである。当時、われわれが電話の敷設を申し込んでも、すくなくとも二年はかかった時代だ。だから、これには本当に驚いた。つくずく偉い人はたいしたものだと思ったものである。ちなみに、われわれの外科教室内で電話のあるのは、教授室、医局、看護婦長室に一本ずつあるだけである。
男前の極致 高見順
その後、この個室にまた知名な患者が入院してきた。当時としては珍しい長髪姿の美男子で、上質な着物を着流し廊下を歩く姿は、なんとも知性ある男前の極致であった。それが作家の高見順であった。
その かれの病室には、いつも50才前後の女性が付き添っていた。なかなか愛想のよい人で、医師のあしらいも上手かった。彼女は高見氏に終始付き添い、懸命に看護していた。それでいて、疲れて暗い素顔は一切見せず、いつも笑顔を病室の内外に振りまいていた。そんな風だったから、氏の留守の間に診察と関係なく入室しては、雑談する医師もすくなくなかった。時に小さい女の子もいたようだ。
ところが、この女性について看護婦たちの間には妙な噂があった。女の感とでもいうのか、女性は奥さんではなく高見順の彼女だというのである。だが、いまだに真偽のほどはわからない。
その後大分たってからのことだ。テレビで高見何がしという若い女性の姿をみかけるようになった。その容姿は病室に付き添っていた彼女の顔にも、高見順の顔にも似ているように思えた。年恰好から、親子であったとしても不思議ではないようだ。
当時、高見順がどれほどの作家か知らなかった。「星は降る雨の・・・」何とかという作品を見たような記憶はあったが、あまり関心はなかった。
最近、コロンビア大学のドナルト・キーンという日本文学者が、米国から日本に帰化した。89才の高齢である。帰化の理由に、第二次世界大戦末期に高見順が記した一文にいたく感動し、こういう感性を持った日本人になりたい、とかねてより願うようになった、と述べている。キーン氏は、忘れ去られつつある日本人の感性を、高見順に見出し、日本人以上に日本の心を持ち合わせる人、となったのかもしれない。
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