乃木希典夫妻自殺の真相
一
縄から出ないように。そこ!前にでるんじゃない!」
明治最後の年九月十三日夜、青山一丁目から六本木に少し寄った外苑東通りで、顎紐の警官が群衆を前に声をからしていた。
ほどなく明治帝の棺が通過するのである。午後七時、皇居を進発した霊儒は、葵橋をわたり赤坂見付から青山葬場殿に向かう坂を登りはじめていた。各地から民衆が押し寄せ、青山一帯は地鳴りのうねりを打っていた。品川沖、横浜沖に停泊する軍艦の弔砲の轟音、夜空を押しつぶすような寺院の鐘が、群集の心を興奮の坩堝へと誘っていた。その時、警官は、群集を掻き分けしきりに前へ出ようとする、蒼白な顔色の女中風の少女を目にした。午後八時二十五、六分のことである。少女は人の腕を払い、肩を押し、群集の中ほどまで出てきた。髪は振り乱れ、目は引きつり、襟元がはだけていた。涙をためる顔を警官に向け、
「大変です!すぐ来てください。・・・はっつ、はっつ、すぐ来てください。・・・旦那様が、奥様が、・・・はっつ、はっつ大変なのです」
上げた手をおろすと、顔を覆って泣き崩れた。喧騒と警備に気をとられる警官には、少女の言葉の断片が掠めたが、何を言っているのか分からなかった。少女は瞬く間に群集の喧騒に吸い込まれ、まもなく姿を消した。
警官は長野県警から派遣された坂本和七警部補といった。
それから四、五分経った八時三十分頃。突如、わき道から黒塗りの自動車が現れ、外苑東通りを横切ろうとした。坂本は笛を鳴らし、怒気荒々しく両手をひろげ、自動車の前にたちはだかった。
「ここは通行禁止だ!通ってはいかん!」
きびしく制止した。
と、車の後部席の窓が開いた。そこから気品ある若い女性の小さい顔が現れ、見たこともない黒い帽子が坂本の目を射た。
「私は湯地貴族院議員の身内のものです。親戚の乃木希典大将ご夫妻の急死を聞いて、ただいま駆けつけるところでございます」
坂本は湯地という名前を聞いて、政府内の、とある高官の名に思いあたった。女性の引き攣った顔色、黒ずくめの衣装から、ただならぬ事態が発生していることを嗅ぎとった。
「はっ!あの日露戦争の、乃木大将閣下のことでありますか?」
女性は軽く頷いた。坂本は唐突にも、
「本官も・・・同乗させてはいただけませんでしょうか?」
警備の任務を忘れたわけでない。さきほどの引き攣った顔の少女が、旦那様、奥様が大変です、と叫ぶ声がにわかに蘇っていた。坂本は近くの同僚に耳打ちすると、ドアの取っ手を握り、
「失礼いたします」
棒のようになって運転席のかたわらに座った。
ほどなく、自動車は乃木邸のレンガ門内の小さい前庭に滑り込む。玄関右手の無灯の応接間が、おそらく廊下の灯火でもあろうか、その漏れ灯を入れ幽玄な雪洞のようにみえていた。女性は右手の数段下がったところの内玄関へと走っている。坂本も急いでその後を追った。玄関にいた出迎えの書生に導かれ、幅一メートルにもみたない、杉板作りの素朴な梯子段を上った。上りおわると、ロビー兼用とみえる広めの廊下に出た。右手の食堂をやりすごし、左へ目をむけると、奥に数人の男女が老女を囲んでかたまっている。坂本に向かって老女の蒼白な唇が動いた。
「私は乃木夫人静子の姉サダ子です。この部屋の中に、希典さん、いや、乃木さんと妹の静子がいるんです。たぶん、死んでいると思います。襖を開けられないので、こうして待っていたところです」
「はっ!」
と敬礼する坂本の体は強ばっていた。
坂本と同乗してきた若い女性はサダ子に寄り添い、
「叔母様」と声をかけ肩を抱いたが、あまりの異臭に気おされたか、それより先に足を運ぶことも、顔を上げることもなかった。廊下と居間を隔てる襖は頑丈な板でつくられている。男二人掛りでも開かない。
「釘抜のようなものはないか!」
坂本が叫んだ。ほどなくあわただしく階段を上がってくる音とともに、釘抜きをさしだす者があらわれた。坂本はそれを梃子に襖をこじあける。ぎしぎしと軋むにつれ、隙間からはげしい血の匂いが鼻を刺した。かなり大量の血液が流れているに違いない、と坂本は感じた。やがて、ガタンと音を立て襖が溝から外れ、室内が一望された瞬間、一同から野獣のような呻き声が上がった。女たちは目と口を塞ぎあとずさった。老女は、
「あ、ああー」
と悲鳴をあげ、その場に崩れてしまった。
電灯が部屋の惨状をまざまざと見せている。坂本の足元すぐのところに、黒髪豊かな夫人が仰向けに倒れている。おびただしい量の血液と夫人の黒の礼服姿が、異様なコントラストとなっていた。夫人の向こうに乃木と思しき男が斃れている。坂本は注意深く部屋に足を踏み入れた。部屋中が血液で埋まり、足の踏み場もない。坂本は夫人の傍らで腰を屈めると、仔細に遺骸を観察した。
両腕は肘関節で曲がり、右手は半握りで腹部におかれ、左手は半開きで胸部にあった。胸部に白鞘の短刀が深々と刺入されている。首元をみると、気管が露出している。遺骸の下の二坪ほどの青い絨毯が、血液を含んで黒々と見える。
乃木は功一級金鵄勲章を付した軍服の上着をかたわらに置き、頭を夫人に近づけた左側臥位の姿で斃れている。夫人の頭との間隔はわずか十五センチほどしかない。頚部から刺した軍刀がうなじに抜けている。これが致命傷となったことは一目瞭然であった。
坂本は次間に向かった。居間の右奥が六畳の次間であった。襖が外され二間が一望できる状態である。次間のほとんど全部に紙片が散乱し、畳んでおいたらしい数種の軍服もはげしく乱れていた。異常な情景に坂本は一瞬思考を失った。が、現状保存の使命感が懸命に脳を励ましていた。坂本は居間、次間の全体像を俯瞰し、慎重に脳裏に刻みこんでから廊下に出た。
応接間には鍵がかかっているので、なかの電話は使えない。坂本は階段を降り地階の電話室に駆け込む。そして、力いっぱい発信ハンドルを廻した。
「わたくしは大葬の礼の警備のため、長野県警から派遣されております坂本和七警部補であります。ただいま、家人の要請に応じ乃木邸に参りましたところ、乃木大将閣下ご夫妻が死亡されております・・・至急、検死をお願いします」
と報告した。乃木希典といってもご存知の方ばかりではないであろう。日露戦争時、乃木は露軍が守る旅順要塞を攻略する満州軍第三軍司令官陸軍大将であった。開戦当初、参謀本部は旅順攻略を重視していなかった。十年前の清国相手の日清戦争の、わずか一日で要塞を陥落させた経験が消えていなかった。ところが、いまやロシアの権益下におかれた旅順要塞は、格段の補強増設工事によって、強固な要塞に変わっていた。しかも、旅順港のロシア太平洋艦隊が、渡満日本軍の補給路を脅かす作戦上の危惧となっていた。そこで、第一軍黒木大将、第二軍奥大将につづいて、急遽、旅順攻撃を主作戦目的とする第三軍が編成されることになった。この時、那須でなかば隠退していた乃木は、あえて願い出て第三軍司令官となり満州荒野に出陣した。だが、旅順攻略は困難をきわめ、六万余の戦死傷兵を出す苦悩の司令官を演じることになった。
乃木は日露戦争終結後、明治帝への復命の際、旅順攻略で多数の天皇の将兵を失ったことを恥じ、腹を切ってお詫びしたい、と覚悟のほどを披瀝した。明治帝は、余の存命中は控えよ、と慰留した。こうして乃木の自決は猶予されたが、乃木はまさか自分より年若い明治帝が、さきに死ぬとは思っていなかった。 乃木の復命の模様は二人の陪席高官から漏れた。すると、たちまち将軍たちの間で、何もそこまで言うこともあるまい、もっと抽象的、楽天的でもよいのではないか、と囁きあう声があがった。だが、乃木の謹直な心情、強い責罪感がそれを許さなかった。情の脳が沸騰し、知の脳が抗えず、言わずもがなの言葉を口にしてしまう。常人なら抑えられたが、乃木の人一倍深い責罪、謹直、潔癖の情動が許さなかった。その一方で、生来の二層性の情動、すなわち正と負、強と弱、謹直と堕落、剛毅と脆弱といった、両極端の情動が発動され、のちのちまでその発言・行動に悩むことになる。
乃木は訃報を横須賀の友人宅で聞いた。横須賀からとって返した乃木は宮中に直行する。侍従長の特別の計らいで拝顔を許されたが、最敬礼の姿のまま嗚咽をつづけていた。やがて促され控室に下がったが、そこからいつまでも離れようとせず、茫然立ちつくすのみであった。崩御直後、奉伺した者の多くは皇族であり、一部に井上侯爵、寺内台湾総督、鍋島侯爵、大内光蛍伯爵(天皇家縁類)などの顕官もいたが、乃木の奉伺は異例なことであった。
一ヶ月半ほどたった九月十三日、亡き明治帝の大葬の礼が荘厳かつ盛大に執り行われたが、この夜、乃木は自殺するのである。当夜午後七時。帝の霊柩が牛五頭の引く嬬車に移され、殯宮(あらきのみや、崩御後、柩を安置する仮御殿)を出立し、衣冠束帯素服の前侍従長徳大寺実 則、侍従北條氏恭、主馬頭藤波言忠らが霊柩の綱を引き、側近二人が左右に灯を掲げて道を照らすなか、皇居正門を出御した。皇居二重橋正門前に安楽警視総監率いる警部十二騎ならびに近衛騎兵連隊が供奉。軍楽隊の奏でる「哀しみの極」が、人々の足をゆっくりと進ませていた。警官隊、騎兵連隊のあとに、鼓,鉦、白や黄色の長旗、矢入、弓,楯,矛などの武具、御幣を納める櫃を捧持する素服の松明をかざす宮人や、二列となった五十人の八瀬童子らが、明治帝の嬬車を先導していた。儒車の後に天皇名代、大葬使総裁、各親王、王,韓国皇弟、華族総代、大勲位、内閣総理大臣、国務大臣、朝鮮総督、独逸ハインリッヒ親王、英国コンノート殿下、米国ノックス卿、スペインボルボン親王、フランスルボン将軍などの各国使節、陸海軍大将、枢密院顧問官などの文武百官が粛々と歩を進めている。
伊東元帥(日清戦争時の連合艦隊司令長官)、奥元帥(満州軍第二軍司令官)、黒木大将(同第一軍司令官)、東郷大将(日露戦争時の連合艦隊司令長官)、大迫大将(乃木第三軍第七師団長)など、日清・日露の戦争を乃木とともに戦った陸海軍の将軍が列をなす。乃木もここに供奉するはずであった。
葬列は二重橋正門から貴族院、衆議院前を通過、まさに赤坂見附を左折し、丁度、青山の坂を上ろうとしていた時、乃木は妻静子をともなって自殺をとげたのである。
二
赤坂警察署は青山の坂の途中にある。管轄範囲は三宅坂、虎ノ門、赤坂通り、赤坂見附、青山一丁目。その第三十四代署長となったのが本堂平四郎警視であった。本堂が群集鎮撫のため青山四丁目方面に出向いていた八時四十分、赤坂警察署に一本の電話が入った。坂本警部補から乃木夫妻死亡を報ずる電話である。電話を受けた山賀喜三冶警部補は、署内救護班詰所の警部補岩田凡平警察医員のもとへ走った。
「只今、警邏中の長野県警坂本警部補より、乃木大将閣下ご夫妻が死亡しているとの緊急通報が入りました。即刻、検視をお願います」
大葬に備え救護任務についていた岩田は、乃木大将の検視に立ちあうとは夢にも思わなかった。野沢徳、園江虎次郎の両医員をよせると、「緊急出動です」
とだけ言った。
野沢が黒革のカバンを握った。山賀は新聞記者、群集の目を避けるため、付近の地理にあかるい松田巡査を裏口に待機させていた。三人の検視医は松田巡査の後を追った。この時、岩田ははじめて二人の医員に事件の内容を説明している。松田巡査は付近の道をよく知っていた。民家の裏庭、狭い軒下、林などを通り抜け、午後九時には乃木邸に到着している。
乃木邸のレンガ門に近づくと、乃木と書かれた提灯をかざす若者が目に入った。若者は書生の大高と名乗った。岩田らは大高の案内で四段ほどさがった内玄関から屋敷に入った。そこは地階であった。廊下の突き当たり右側に、一階に向かう階段がある。検視医たちは階段を軋ませながら居間へ向かったが、途中から強烈な血液臭を感じた。 大高は、
「お二人は八畳の居間です、奥が六畳の次間となっていまして、反対側のこちらが奥様の・・・」
などと口にしていたが、岩田は無言のまま居間へ直行した。廊下突き当り右側の居間に、血の海に横たわる二つの遺骸があった。一同は一瞬後ずさった。血に慣れた検視医たちも、その光景にはさすがに息を呑んだ。まだ温もりをとどめる大量の血液がはげしく鼻腔を刺す。頭を寄せ合う男女が血液の海に浮かんでいるようであった。岩田は手前の女性が夫人、向かい側の縞入りの黒ズボンの男が乃木とみた。血液に埋まる夫人の喪服が、凄惨さのなかにわずかに色香を感じさせ、岩田の胸をはっとさせた。居間と次間の境に一人の警官が敬礼していた。
「私は先ほど通報しました長野県警の坂本和七です」
さらに、傍らの白衣の若者に顔をむけ、
「こちらは中村医師です」
と岩田にむかっていった。うつむき加減の若者は中村正員といい、最初に遺骸を診た檜町横尾済民協会の医師とのことであった。岩田は医師に向かって軽く会釈すると、
[先生がこられた時の状況は如何でしたか」
と尋ねた。
「はい、当院に乃木さんのお宅から至急診察をとの要請があったのですが、院長の横尾求馬先生が大葬救護所に出張して留守であったので、私がかわりに診察に伺った次第です」
「それで、先生がこられたときの状況はどうでしたか」
「内玄関から招じ入れられましたが、邸内には老人の男女各一名、下女二人、それに妙齢の婦人がおられました」
医師は妙齢と表現したが、これは後にサダ子の孫の英子のことと判明している。老人は夫人の姉馬場サダ子と馬丁である。
「それから、私がこの居間に入ろうとしたとき、ここにおられる警官が、先生、助かるかどうか至急診てくださいと言われました」
「なるほど、それで身体状況はいかがでしたか」
「一見、お二人とも死亡状態が明らかでありましたので、診察は致しておりません」
「わかりました。ご苦労様でした。いずれあらためて伺いしますが、今のところは、これで」
中村医師を去らせると、岩田らの検視医は乃木夫妻の検視にとりかかった。
ここで、岩田らが乃木夫妻の剖検結果を記述した岩田検案書というものについて、すこし説明する。
筆者は岩田検案書を検討してゆくうちに、いくつかの不自然な点のあることに気づいた。
それは夫人の遺骸についての記述部分である。複数人が証言したような、夫人が仰向けに斃れていたこと、頸部に気管が露出するほどの損傷のあったことなどが、岩田検案書には記載されていないことである。
当時事件の要衝にいた安楽兼道警視総監が、元老西郷従道(西郷隆盛の弟)へ送った事件直後の書簡によれば、夫人は仰向けに斃れ、膝を露出した状態で死亡していた、となっている。事件直後、警視総監が元老へ送った書簡だから資料としての信憑性はたかい。
そもそも岩田検案書と称するものは、当時の国情から政府上層部、ことに軍部の意向によって修正されなければならない運命にあり、結局は没収の上、発表禁止の処分を受けているのである。当時の日本は列強の侵略からみずからを護るため、富国強兵、軍備増強を最重要国策としていた。東亜共栄の理念のもとに周辺諸国を支配しようという目論みもあった。その機運の核となっていたのが山縣有朋をはじめとする軍部であった。したがって、乃木事件をもって忠烈無比、国民の鑑たるべきものとしなければならなかった。ところが、事件の真相はこうした意図に適うものではなかったところから、岩田検案書の改竄をはじめとする、事件の真相隠蔽工作がおこなわれることになったのである。
当時の新聞各社も真相究明のために果敢に立ち向かっていたが、次第に強まる言論統制に抗しきれず、真相追究の言論、風潮は次第に萎えていった。ましてや、公文書たる岩田検案書が公表されうるはずもなかったのである。事実に反する検案書に欝念を抱える岩田は、事件後二十年以上もたった昭和九年、自費で検案書(原本とは違う修正検案書)のガリ版刷り六十部を作成、これを友人知己に配布するという、通常の検視医ではありえない行動をとることになった。そこには、岩田の真実追及という正義感ばかりではなく、移り行く時局の危うさへの警鐘がこめられていたのかもしれない。しかし、昭和九年といえば、日本は軍国主義の真っ只なかにあった。乃木事件の真相を公表することはきわめて難しかった。仰向けの死骸とすれば他殺の線が露骨になるし、二つの致命傷では自殺に矛盾する。 すでに跡形もない原本を想起してまで、さすがの岩田も公表することはできなかったであろう。
さて次に、岩田ら検視医らの剖検状況を追ってみることにしよう。岩田は、野沢徳、園江虎次郎の二人に解剖を任せ、みずからはプロトコル(剖検所見)の作成に専念することにした。乃木の頭上東方に、明治帝の御真影を奉安する、白布に覆われた小さい机があった。机上に和歌三葉と巻紙の遺書、封筒一通、三葉綴りの指令書などおかれ、紋章入り大銀杯,磁製御神酒などが並んでいる。また、重要書類と付箋のつけられた、白布の包み物が机の下に置かれている。
乃木のからだは、やや斜めに御真影に向かって、左側臥位、右足伸展、左足屈曲の姿勢で斃れ、顔面は左を向いている。検視医はその時酒気を感じている。事実、自殺直前までブドウ酒を飲んでいたことが明らかとなっている。
足のちかくに軍刀の鞘がおいてある。遺骸周囲六十五センチが鮮血の海で、その先三十センチの先まで血液が飛び散っている。乃木と夫人は互いに頭をよせあうように斃れており、その間隔はわずか十五センチしかない。しかし、夫人の体は乃木の左側、つまり乃木の背中にある。
乃木の左頚部から刺入された軍刀は、やや右曲がりして左項に貫けている。傷口は横径五センチ縦径三センチの不正形の乱れた刺創となっている。この乱れた刺創という所見は真相解明の重要な点となるので、記憶に留めておいていただきたい。その穿刺創の近くに長さ二センチほどの鞭状の皮膚片がある。軍刀を刺す場所を探ったものか、あるいはためらい傷ででもあったのだろう。
乃木の体を上向きに返すと、腹に三条の切り傷が認められた。臍上五センチに横走する十七センチ長の第一の切創、第二刀をもって左上から右下に向かう十五センチ長の切創、第三刀は第二刀の中心からやや右上に向かう七センチに及ぶ切創、の三条の切腹創が認視できた。
切腹の流儀は時代とともに変わっている。本来、文字通り腹を切って、みずからに苦痛を与え、責め、罰するというのが本義である。相当の苦痛を伴うばかりか、実際には実行不可能のことが多い。そこで介錯人が首をはねる流儀が加わった。介錯人がいない時には、腹を軽く切って、返す刀で頚動脈を切断するというのが流れとして定着している。
茶道の宗匠千利休は、豊臣秀吉に切腹を命じられ、慫慂として死についた。その切腹は大名武士にも劣らぬ寂全たるものであった。茶室の床を三方代わりにして腰かけ、炉をなでる松風の音に聞き入りながら、腹を十字に切り開くと、臓腑をつかみ出し自在の蛭鈎にかけた、という。だが、これは茶人利休を美化するための脚色であろう。実際には弟子の一人蒔田淡路守が介錯人となっていた、と史実は伝える。
検視医は剖検しているうちに、乃木の下半身に奇異な所見を発見した。それは、切腹創を観察している時から不審に思われていたことであったが、肩からつるされた二条のズボンつりのような紐が、股間につづいていることであった。ただのズボン吊ではなく、材質も普通の綿布、三列か四列幅の包帯と分かった。股に跨る包帯の辺りに、紙が捲きついて塊となっていた。紙をはがしてみると,毛筆を五、六センチほどに切ったものが二本、それに肩から吊った包帯が通してあった。
「これはいったい何だろう」
三人の検視医も首を傾げてしまった。不思議は剖検が終わるまで解けなかったが、検視後、家人の話から疑問が解消した。乃木にはかねて脱肛をおこすほどの重症の痔疾があり、死後の脱肛を防ぐための工夫と分かった。絞首などの場合時として脱糞をみるが、肛門出血も脱肛もなく、このほかに異常はまったく認められず検視は終了した。
検視医たちは夫人の剖検に移った。
夫人のからだは、部屋の東にある御真影の右前方五、六十センチの位置にあり、
・・・膝ヲ屈シウツ伏セノ状態デ斃レテイタ、・・・
と検案書にあるが、実際は仰向けの姿勢で膝を露出する状態で斃れていた。遺骸が敷く六畳ほどの由多加織りの絨毯には、大量の血液が浸み込んでいる。胸に白鞘の短刀の柄が直立し、その右手は半握の状態で腹部に、左手は半開の状態で胸の上におかれている。体格、栄養はともに中等度、比較的に皮下脂肪に富み、全身は蒼白色で、手足は比較的に自由に動き、死後の硬直はまだなかった。
頭部毛髪は黒色長髪で豊富に密生しており、髪の長さは六十センチ。頭部に特別の所見を認めない。顔色ならびに両眼瞼結膜ともに蒼白。角膜透明、左右瞳孔散大、両耳鼻孔内に異物・損傷を認めず。口は半開し、口唇粘膜は暗紫色、舌は歯列の奥に後退。口腔内には暗赤色半流動の血液が少量含まれている。頚部ニハ絞扼痕ナドノ異常ハミトメラレナカッタ、等々
としているが、実際は頸部にパッと払うような切創があった。これは検視・剖検を実際に指揮していた本堂警察署長が、一貫して主張する所見であり、きわめて信憑性のたかい事実と思われる。これは、現存する岩田検案書(公式に作成されたいわば修正検案書)の記録と大きく異なる点である。
以上の外見上の検視についで、さらに傷の精査状況を検証してみよう。
心臓穿刺の傷はかなり深いものであった。その創口は左胸部で第五肋間、胸骨左縁ちかくにあり、創縁は鋭利だが、すこし外下方(左下)に広がっていた。
これらの所見には真相を示唆する重要な所見が秘められている。創縁が鋭利であったということ、ならびに創縁が外下方、つまり夫人の左下方に広がっていたということは、後段検証の項で詳述するが、心臓を刺した短刀が果たして誰の手に握られていたのか、という真相究明の重要な手がかりとなり得るものである。
短刀は心臓の前後壁を貫通したうえ、さらに背中の皮膚を破って、刀尖が背中を突き抜けるという、強力な穿刺であった。これが夫人の致命傷となったことには疑いはない。
ところが、検視医の注目を引いたのは、同時に、気管が切断されるほどの、咽喉部に横走する切傷の存在であった。気管を切断されていたということは、傷口が横切であったということである。これらの二つの傷はともに致死傷となりうるもので、本来、並存不能の創傷である。したがって、夫人の自力でなしうる傷ではない。こうした点も、夫人の自殺説を否定する所見といわざるをえないのである。
しかも奇異なことに、短刀の柄には白紙が捲かれていた。これも事件解明の重要な所見である。また、短刀の先端にある欠損は、脊椎横突起に当たった時にできたもの、と判断された。
短刀を抜去して精査すると、刀身に月山と読める文字が彫ってある。後に月山貞一作の新刀であることがわかった。刀の長さは二十センチ(六寸三分)長、一センチをのこしてすべての部分が刺入されていたことが分かった。初老の女性のよく為しうるとろのものではない。夫人単独自殺説を疑わせる所見である。
夫人はツルバミ色の小桂喪衣をつけ、柑子色の袴は胸元近くで結ばれていた。白羽二重、白木綿襦袢三枚、これに白縮緬帯を捲き、白腰巻、白足袋をはいている。衣類が解かされた様子はなく、着衣の上から心臓部に向かって、前述のごとく刃を外向きにして刺したことになる。初老の女性のよくなしうるものではない。
さらに、夫人の体には理解をこえる複数の傷があった。
すなわち腹部に三箇所の刺創。このうちの右上腹部の刺傷は肺臓に達していた。他の腹部傷は傷口一センチ程度の浅いもので、短刀の尖端でできたものである。
肺臓に達する傷があるにもかかわらず、口中に少量の血液しか認められていない。これは肺臓の損傷が小さかったか、あるいは気管が切断されていたからと考えられる。
きわめて特異なことは、親指と示指の間に四センチにわたる切創があり、手掌骨にまで達する深手をつくっていることである。さらに、左の二の腕に袖の上からの長さ一センチの切傷もある。以上の夫人の創傷をまとめると、
第一、胸骨下端剣尖(剣状突起)、長さ一センチ、胸骨に達する刺創。
第二、右胸骨第四肋間の右縁、長さ二センチ、右肺に達する刺創。
第三、右肋骨弓の上部左乳腺の内方、長さ一センチ、皮下組織に達する刺創。(検案書記述の間違いで、実際は左肋骨弓である)
第四、左胸第五肋間胸骨左縁、長さ三センチ、深さ約二十センチ、心臓右室を貫通する刺創。
第五、左上腕の前外側の上部、長さ一センチ、皮下組織に達する刺創。
第六、左示指と拇指間、長さ四センチ、深さ第一掌骨基底に達す。
このほか、検案書には記載されていない、気管を切断する頚部横走の創があった。
以上、事件現場の状況を述べたが、その真相がどのようなものであったか、諸賢にはすでに真実のおおよそを喝破されたことと思うが、当時の報道機関においても、真実を抉るような報道が多々なされていたが、大多数の国民は真相を知ることなく今日に至っている。言うまでもなく、真相を語ることのできるのは現場を見ている者だけである。現場を見ている人物、あるいはその可能性のある人物を次に記す。
坂本和七
襖を壊して居間の現場を最初にみた長野県警警部補
中村正員
坂本に遅れ死骸をみた医師、赤坂檜町横尾済民協会医師
岩田凡平
警視庁救護班赤坂警察署支部長 警部補。現場検死医
野沢 徳
同参謀防疫員兼検診委員 現場検視医
園江虎次郎
赤坂警察署内救護所主管 現場検視医
山賀喜三治
赤坂警察署警部補 岩田らを送り出した後、送れて乃木邸の現場へ
本堂兵四郎
赤坂警察署署長 警視 事件現場責任者 真実を貫く硬骨漢 南部藩出身 反薩長派
石黒忠悳男爵
乃木遺書で解剖を依頼され剖検終了後に現場視察
湯地定彦
夫人静子の甥 異変の知らせを受け来邸、遺書数通を受領、遺体の縫合を早くするよう検視医に要請
村上某
学習院校医 軍医正 園江医員と検死後の現場保全の任務
以上の人たちは確実に現場を見ていることになる。このほか事件当夜乃木邸にいた人物は、
大館修作
乃木の実弟、山口県長府より上京、現場を見ている可能性は高いが、不分明。
夫人の姉馬場サダ子とその孫英子
事件発生時乃木邸にいた。馬場サダ子は直後の現場を一瞥している。
書生二人、馬丁、女中二人。
書生の一人、馬丁らは、襖を開けた直後の現場をみた可能性はあるが、一瞥呆然にして正確な記憶はないと思われる。だが、女中の一人おかね(十八才)は、岩田ら検視医に命じられ死骸の後始末をしているから、その記憶の信憑性はたかいと思われる。
坂野照人
毛利家家扶 毛利家四男元智をして乃木家を継承させるため来邸。現場を見ているか不分明。
そのほかかなり多数の軍人、知己らが来邸していたが、現場を見たかどうか不分明。
以上のうち、発言記録の残る者として、本堂警察署長、石黒忠悳男爵、夫人の姉馬場サダ子、女中おかねらがおり、彼らの発言は真実を示唆する貴重な史料となっている。各社の新聞報道もこれらの人たちの発言に基づくものが多い。
事件翌日の九月十四日の国民新聞はつぎのような号外を出した。
・・・天皇の柩出発の号砲とともに夫妻自害
学習院院長軍事参議官陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵乃木希典(六四才)ならびに夫人静子(五四才)は、十三日午後八時すぎすなわち明治天皇霊儒御発引の折を見計らい、号砲を合図として赤坂新坂町五十五番地なる自邸に於いて、見事なる自殺を遂げたり。当日は霊柩の桃山御陵に御発向に相成るべき日とて、宮内省は上を下へと騒ぎ居る折、午前九時四十分ころ、平素は乗馬のみなる大将が、珍しくも夫人と自動車に同乗して殯宮参拝のため参内し、十時十分、恭しく礼拝を終わりし後、自邸に立ち帰り、病気なりとて奥の間深く立て籠り、夫人と共に何事をか秘かに語り合い、少しも家人を立ち入らしめざりしが、八時に至り怪しき物音大将の居間に起りたるより、女中某は大いに怪しみ、大将の居間の障子を開かんとしたれど、鑰固く閉ざしありて開かざれば、出入りの車夫と共に、長野県警より出張の応援坂本和七警部補を呼び来たり、戸を破りて闖入し見たるに、西洋間隣室なる日本間の五畳、八畳二間の襖を取り除き、と見る奥八畳間に、大将は参内のまま正服を着け、机上に布をふき、その上に先帝の御肖像を奉掲し、厳然として宮城の方に向かい、軍刀を以って咽喉部を刺し貫きて、刃を横に出で大動脈を切断して、体も崩さず見事なる自殺を遂げ、夫人は大将と相対して、白羽二重の上に黒き喪衣を着け、同じく匕首を以って咽喉部を貫き、膝も崩さず少しも取り乱したる姿なく、鮮血淋漓たる中見事なる最後を遂げ居たり。 ・・・
国民新聞は号外につづいて同日、本堂の談話も掲載している。
・・・夫人は匕首をもってパッと喉頭部を気管まで切り、ついで心臓を突き刺したものであろう(本堂兵四郎赤坂警察署長談 )・・・
ところが早速、この本堂の発言にたいし当局の圧力がかかった。本堂は東京検事局から召還命令を受けることになったのである。その理由は事件の発言内容にあったことはいうまでもない。
そのためか、翌日、本堂は目に涙しながら、国民新聞の社会部長座間止水につぎのような記事を書かせることになる。
・・・悲壮 鬼神を哭かしむ 見よ偉人の光輝ある最後を
四日午前二時半まで行政検視を行いたる本堂赤坂警察署長は容を改め涙ながら其の真相を物語る。曰く、私は役目としてあの偉人の最後の実況を見た。これまで永き間自殺を見たが乃木将軍ほどの武士的の割腹は始めてである。じつに模範的の殉死なることを報告し、世に誤謬を伝えられ之が為に先入主となりて隔世の偉人の最後を汚さんことを憂慮し、断然ことの真相を語ります。夫人は紋付正装で七寸の懐剣を持ち匕首を以って咽喉部貫き、返しを胸部に当て束を畳みに当てかぶさって心臓を貫き、懐剣の切尖が背側肋骨を斬り刀尖皮膚の上に現はれんとして居る。心臓を斬ったため此際アツアツバタバタと声を出されたので、二人の下女が聞きつけ宙を飛んで上がった。中から鍵がかけられて開かぬ。無理に押すと戸の隙目から大将は見えぬが夫人だけ鮮血に塗れて見えた。其処で大騒ぎとなり自分等が検視に行くことになった。・・・大将は余裕綽々としており精神は異常のなかったことは明らかである ・・・
この記事によれば、夫人は匕首をもってぱっと喉頭部を気管まで切り、ついでうつ伏せの姿勢となって心臓を突き刺した、という。
本堂は検事局召還後も剖検所見の真実を変えることなく、咽喉の創の存在を主張しつづけている。ただ、喉笛の気管を貫いた挙句返しを胸部に当て、束を畳に当ててこれにかぶさって心臓を貫いた、との発言には真実を曲げる忸怩たる思いがあったろうが、これがたとえ自殺方法として不自然であろうとも、また初老の夫人が背中まで突き通すほどの一突きができるか、などの疑問符がついたとしても、真実は真実として、気管切創と心臓穿刺の両方があったことを主張し、自殺か他殺かの判断は余人に任せる、との覚悟であったとみえる。このように、本堂は死骸の状況に関してまったくブレはない。しかしながら、当局の意向に沿ったか、巷間流布していた噂を否定するため、いわずもがなの余裕綽々としてとか、精神異常ではなかった、などとの発言も添えている。たんなる臨検者の立場から、当該者(害者)の精神状態まで踏み込むのは尋常でない。また、これを発表した時にみせた本堂の涙は、当局督励下の検事局に対抗する、真実に忠実たらんとする決意の涙であったかもしれない。あるいはまた、その一部に交える虚偽の言葉への、忸怩たる思いの涙であったかもしれない。
一方、石黒男爵の新聞発表も数多くみられる。石黒はかずかずの戦陣で多くの切った張ったを経験している軍医である。現場の状況から一瞥して刃傷沙汰であることを見抜いていたに違いない。だから、事件翌日の九月十四日の新聞紙上で、夫人のほうが先に死亡したようである、と率直な言葉を口にしている。これは、暗に乃木が夫人に手を下していることを証言したものである。ところが、四日後の九月十七日の朝日新聞発表では、石黒は前言を翻し夫人の後追い自殺説を強調するあまり、不注意な発言をしてしまう。
・・・乃木は鍵をかけた部屋の中で夫妻で死んだのであるが、私の考えでは最初妻を刺殺し、次に乃木が死んだのだろうと思っていたところ、あに図らんや実際は乃木がまず切腹して咽喉を刺してから、夫人が最後を見届けて心静かに死んだものらしい ・・・と、石黒は、最初妻を刺殺した、と口にしてしまう。心臓穿刺の情景が脳裏から消えなかったのだろう。また、記者から乃木の解剖について聞かれた際にも、繰り返し次のように語っている。
・・・わしに解剖の依頼があったが、胸部刺傷という明白な死因があり、ごく単純なもので解剖しても裨益するところが少ないが、頼まれたので黄泉で乃木に文句を言われるので、大学の法医学の片山博士ならびに陸軍医学博士で外科専門の鶴田、芳賀両君を呼んで外科学の参考にしてもらい、これだけで解剖しないことにした。・・・さて、わしは最初、夫人の方が先に死んだと思っていたが、あに図らんや夫人は乃木の最後を見届けてから心静かに死んだものらしい。・・・
このように、石黒の発言には一貫したものがなく、夫人の死亡時期についても、乃木より前であったり後になったりする。立場上、真実を脚色しなければならないから、いろいろと矛盾することになる。医師と統治者の立場の両立は難しいことであったろう。
事件後、巷間流れる噂にはかなり真実を穿ったものもあり、
“乃木は気が狂ったように妻を追いかけ惨殺した”
“嫌がる妻のからだに短刀を振り回した”
“乃木は精神錯乱をおこしていた”などがあり、石黒も懸命にこれらを払拭しようとしていたのである。
そもそも、石黒にはお数寄や坊主などという異称がついてまわっている。梁川藩(現在の福島県伊達市)に生まれたが、若いときから尊皇攘夷の志士たちとの付き合いが多く、今日あるのもその縁によるところが大きかった。医師を志し大学東校(東大医学部の前身)に入学、のちに東京大学医学部総理心得にまでなった。さらに、陸軍に転じて軍医総監となり、日清戦争の勲功により男爵を授与、陸軍軍医界の元老的存在となっていた。乃木ととくに昵懇という間柄ではなかったが、乃木が旅団長として日清戦争に参加していた時、石黒は野戦病院長であった。石黒は事件直後、乃木邸の応接間で遺書を受け取っている。その際、本堂警察署署長や岩田検視医らとの談話の中で、
・・・何時のことだったか、乃木とこんな話をしたことがあったな。話が切腹におよんだのだ。わしは、故事にあるような腸を取りだして死ぬことは決してできるものではないよ、と話した。すると乃木はそれでは切腹ができんではないかという。そこでわしが言った。いや、切腹というものは腹は浅く切ってそれでとどめ、それから致命傷となる頚部の動脈を切るんだよ。もし、乃木お前が腹を切るようだったら、わしがすぐ縫ってやるからな、と笑ったことがあるのだ・・・ ・・・おそらく乃木はこの話を脳裏に刻んでいたに違いない。乃木にとって、切腹という言葉は幼児から血の飛び散る凄惨な情景となって、脳裏に埋め込まれているはずである。・・・君らも知っての通り、乃木が育った江戸の長府藩邸はかつて忠臣蔵で有名な義士竹林唯七らが切腹し果てたところであろう。当然,藩士たちのなかにはみてきたように物語る者もいたことであろう。幼い乃木も耳をそばだて戦慄しながら聞いていたに違いあるまい。なにしろ、長府の小学校(集童場)にいた頃から、臆病者の乃木というのが話の種になっていたくらいじゃ、・・・と。
こうした石黒発言の迷走には上層部の意向が働いていたと思われる。 事件後、長谷川弘道、寺内正毅の両大将主導によって、乃木夫妻自殺事件の処理ならびに葬儀等を協議する会議が開かれている。長谷川大将、寺内大将、田中、大庭、岡少将、石黒忠悳、佐々木侯爵、小笠原子爵、竹島大佐、菅野大佐、野津中佐その他陸軍武官、友人知己ら数十名が某所にあつまり、遺書問題や嗣子の選任等の話し合いがおこなわれ、葬儀の日どりを九月十八日、葬儀場を木戸侯爵邸にすることなどが決められていた。また、乃木の遺書は、十六日まで公表しないことも決定されていた。それは遺書の第二条に、乃木家断絶ならびに辞爵の意趣が残されていたからである。しかも、末尾に、
・・・右ノホカ細事ハ静子ヘ申付置候間御相談被下度候呉々モ乃木家断絶ヲ遂ゲ候儀大切ナリ、・・・
との堅い決意で結ばれていた。ところが、この乃木家断絶、辞爵の遺書内容をさぐりあてた朝日新聞は早速、
・・・寺内と長谷川の二人の大将が小細工を弄し、一部とはいえ遺書を秘匿し、無効ならしめたことは由々しきことである。・・・
と噛みついた。一方、事件の真相を探ろうとする各社の報道合戦は日増しに勢いをましていた。毎日新聞(東京日日新聞)は、既述のように警視総監より大山元帥への報告との見出しで、事件の真相をのぞかせる重要な記事を載せていた。
・・・令夫人は仰座両手を胸に宛て膝を出し白鞘の短刀を深く左胸部第五肋間外線に刺入 。・・・
という、当局の見解を真っ向から否定する記事を発表した。慮るに、警察官僚頂点の一人安楽警視総監が薩摩の重鎮西郷従道に、事件の真相を書簡として送ったところなどをみると、山縣有朋を頂点とする陸軍軍人主体の長州系官僚群と、警察官を多く抱える薩摩海軍系官僚群との間に、ある種の対抗意識があったことが推定される。一方、新聞記事にもいろいろな混乱が起こっていた。都新聞は、
・・・乃木大将夫人とともに自殺す
大将は短刀を持って心臓を、夫人はおなじく咽頭部を只一突きにて即死 。・・・
などと、両者の致命傷がちぐはぐなものもある。一方、まさに真相を抉る記事もあった。九月十五日の読売新聞は、
・・・嗚呼乃木大将
夫人は最初に咽喉を刺し貫きて即死し大将はその即死を見定めたる上、下着の白のボタンを外し胸を開き夫人の手より徐に短刀を取り、これをもって左の腹部より右へ横一文字に掻き切りきりたる上、更に右頚部より咽喉部にかけて気管および大動脈を切断してそのままその場に打ちふしたるもののごとし ・・・
と、大将は夫人の即死を見定めたる上、咽喉を刺し貫きて即死、と報道した。傷の順序、事件の推移などをかなり正確に報道しているが、夫人の胸に深く刺さっていた短刀を、果たして誰が握っていたのかという点にはふれていない。だが、(乃木は)夫人が即死したあと、・・・夫人の手より徐に短刀を取り、・・・という記事から、乃木の手にはすでに短刀が握られており、軍刀ではなく短刀で腹を切ったことを強く示唆するものとなっている。これはさらに、切腹して居ずまいを改めた時点でなお、未だ死に切れないでいる夫人の心臓を乃木が穿刺した、という事件推移の真相を暗示するものとなっている。このように、報道される記事にはかなり真相を抉るものもあったが、一方、関係者の名前、所、場所などに混乱をみせるものもあった。まさに世評さながらの混迷ぶりといえる。また、自殺か殉死かいずれとするかについても、各社に統一はなかった。国民、読売、朝日、都は自殺とし、報知、東京日日などは殉死としていた。ところが、ほどなく一様に殉死に統一されるようになる。さらにまた、創傷部位についても頚部損傷がまったく消えてしまう。
つまり、時系列的に報道を追ってゆくと、咽喉部を刺した、とするものは次第に影を潜め、心臓穿刺だけが残って今日に至るのである。頸部損傷と心臓穿刺の両致命傷があっては、夫人の自殺説が成立しないからである。
ところで、当時の世評、ことに文壇人たちは乃木の死をどう見ていたのだろうか。学習院出身の志賀直哉は、
・・・乃木さんが死んだと妻から聞いた時、馬鹿な奴だという気がした ・・・
と突き放した感想を残している。おなじく学習院出身の武者小路実篤も冷ややかな目でみており、乃木の硬直性、形式主義、徳目教育を嫌って、
・・・人間本来の生命にふれない、人間本来の生命をよびさまさない・・・
と酷評している。これは、夫人を同道する乃木の精神性を批判したものであろう。総じて、学習院出身の白樺派の文人たちの乃木をみる目は冷淡であった。これは同時に、学習院長としての乃木の評価に繋がるものがある。夏目漱石は、
・・・乃木の死をもって明治という時代も終わった ・・・
明治を乃木に重ねる優等生の発言である。
一方、万潮報社主で、岩窟王などの翻訳で知られる黒岩涙香などは、
・・・今まではすぐれし人と思ひしに、人に生まれし神にぞありける・・・
と手放しで礼讃している。このように乃木自殺はかならずしも好意的に受け止められているとは言えない。青年将校を養成する士官学校の訓示では、自殺の波及を怖れるあまり、乃木自殺は精神錯乱のゆえである、と諭している。英文タイムスは、
・・・明治の変遷により旧思想は大いに変わりたるものと思っていたが、老人の中には今なお依然として旧体制が残っており、乃木大将夫妻の殉死の如きはその一例なり ・・・
また、デーリーグラフは、
・・・新日本をもってまったく欧化せりとするは誤謬なり。泰西文物を採用したるもいまだ旧思想を捨てず、今回の殉死は著しきその例証なり ・・・
とあり、その他の外国評もおしなべて辛口で、なかには発狂したとするもの、馬鹿馬鹿しいことをしたものだ、忠臣ならなぜ生きて次帝に仕えぬか、といった手厳しいものもある。国民の中にもわずかに乃木に倣うものもあったが、信義、廉直、服従を第一義とする軍人であっても、殉死するのは理解をこえる、というのが一般の反応であった。
検証
事件のあった日、たまたま、夫人の姉馬場サダ子は孫英子を連れて乃木邸にきていた。一方、乃木夫妻は大葬の儀に参列するため、午後六時に自動車の迎えを予約している。夫妻が昼頃から閉じこもった居間に物音一つなく、予約しておいた自動車が迎えに来ても、夫妻に動く気配はなかった。この時、サダ子は肉親の情か、妙な胸騒ぎを感じたという。七時四十分すこし前、夫人がお代わりのブドウ酒をとりに階下のサダ子らのいる茶間におりてきた。
「英子のところへも行きたいが、なかなか忙しくてね」
言い終えて階上に戻る夫人の気配には、常と変わるところがまったくなかった。
それからほどなく、幾度かドスン、ドスンという床をたたくような音がつづき、嫌です、今夜だけは嫌です、という夫人の鋭い叫び声が聞こえた。ほどなくサダ子は叫んだ。
「ああ、静子は死にやったのじゃ!」
急いで女中おたかを階上へ走らせると、みずからも腎臓病で浮腫んだ重いからだを居間へと運んだ。夫人の叫び声や床を揺らすただならぬ音を聞くだに異常なのに、夫妻の篭る部屋の鍵すべてがかかっていた。尋常ならざる事態が発生したと考えたサダ子の予感は当たっていた。
居間にたどりついたサダ子の耳に、かすかな掠れ声が聞こえた。
・・・ごめんなさい・・・
乃木の声であった。この言葉の意味は室内の状況が如実に語っていた。
次間の一隅に最後に慌しく使ったと思われる、水を含んだ硯と筆が残され、夫人の兄湯地定基宛ての遺書にも瑞々しい墨痕が残っていた。これは、自殺直前になって慌しく書かなければならなくなった事態への、つまり夫人を殺害してしまったことへの謝罪の意味がこめられていたのである。湯地定基宛の遺書は今日に至るも行方不明となっている。サダ子が聞いた乃木の最後の言葉も、夫人を道ずれにしたことを詫びる言葉であったに違いない。
乃木の自殺の日時は当初より計画されたものではなく、むしろ突発的なものであった。それは、午前中の乃木参内時の状況から明瞭である。乃木は皇居に参内した時、伏見桃山陵まで供奉するつもりであったのだ。しかし、これを知った山縣有朋は乃木の突出した行動を諌めるつもりだったか、あるいは陵前で自殺されるのを怖れたものか、伏見桃山行きの中止を命じている。したがって、当夜の自殺は予定外であったということになる。自殺したのは午後七時四十分頃と推定されているが、それは丁度、明治帝の霊儒が青山一丁目近くに差しかかる時刻であり、如何にもスタイリスト乃木が選びそうな刻限であった。
岩田検案書
岩田検案書は乃木事件解明の貴重な資料である。だが、検討しているうちに、かならずしも全部が真実でないことが分かった。夫人の自殺には作為・隠蔽があるのである。それは、頚部の損傷を認めていないこと、遺骸がうつ伏せ俯臥状態であったしたこと、さらに乃木に遅れて死亡したとする、いわゆる夫人後追説としたことなどの点である。もとより、岩田自身が検案書を修正、改竄したものではなく、あきらかに、公権力によって事実と異なる検案書となったものである。事実、岩田は当局の処置を不満とし、何と二十年以上もたってから、自費でガリ版刷りの検案書六十部を作成、友人知己に配布するという行動をおこすにいたっている。だが、この検案書も原本ではなく、他殺の線を消すため当局によって作成された、いわば修正検案書ともいうべきものである。岩田が自費出版したのは昭和九年という、日本がまさに軍国主義一色にあった時である。さすがの岩田も原本の発表は控えざるをえなかったであろうし、また、岩田の手にに原本はなかったとも思われる。しかし、岩田はたとえ修正された検案書であっても、これを詳細に読みこめば真相は明かにされると考えていたかもしれない。修正検案書のなかにも、随所に真相を示す記述が残されている。一方、岩田の上司本堂赤坂警察署長は、検事局の召還後もブレもなく、一貫して真実の発言に終始したことは特筆に値する。薩長閥への怨念を蔵す南部武士の、反骨精神のなせる業であったのだろうか。安楽警視総監が西郷従道侯爵に送った書簡からも分かるように、当局も事件の実相を知悉していたことは明らかである。さて、以降述べる検証をより良く理解していただくために、岩田検案書の夫人に関係する部分をお読みいただきたい。
乃木夫人死体ノ検査
夫人ノ遺骸ヲ検スルニ東方ヲ背ニシ正坐シテ頭部ヲ西方ニ垂レ将軍ノ遺骸ト相対向シ面部ヲ敷物ニ接シ両頭部ノ間約五寸許リ、躯幹ハ白布ニテ蔽ヘル机ノ右前方約一尺乃至二尺許リノ處ニ在リ、頭髪ハ下ゲ髪ニシテ右側ヨリ垂レテ敷物ノ上ニ達シ身体ヲ前ニ屈シ両上肢ヲ胸及腹部ニ当テ両膝ヲ折リ両跡ヲ揃エ端座俯臥ノ態位ニアリテ衣裳等豪モ乱レズ。
徐々ニ頭部ヲ擡ゲテ座セシメ更ニ両足ヲ伸展シテ仰臥位ト為シ枕ヲ持来タリテ項部ニ当テヽ検スルニ上ニ橡色、麻ノ小袿ヲ着シ柑子色袴ヲ穿チ白色麻衣二枚ノ下ニハ白木綿襦袢三枚ヲ重ネ白縮緬帯ヲ捲キ白腰巻白足袋ヲ着シ衣類ノ紐ヲ解カズ胸部ノ中央、心窩ノ左上方ノ辺ヲ小袿ノ上ヨリ懐剣ノ刃ヲ外方ニ向ケテ胸内深ク刺セリト思シク剣柄ヲ捲ケル白紙ハ全ク凝血ニ塗レタリ。衣類ノ胸腹ニ当ル辺一帯ハ悉ク暗紅色凝血ニ浸サレ直下ノ敷物及其ノ左方モ亦然リ、剣ヲ抜キテ検スルニ長サ六寸三分許リ(後ニ聞ク月山貞一作)衣類ニ遮ラレタル一仙迷許リヲ除キテ全長胸内ニ刺入シ刀尖微ニ掻ケタリ漸次衣類ヲ脱却シテ検スルニ創傷ニ一致スル部位ニ数所ノ切痕アリ。
顔面頸部異常ナク胸部ニ四ケ所、左上膊一ヶ所左手拇指ト示指トノ間ニ一ヶ所ノ切傷アリ、左第五肋間ノ創傷ハ最大ナリ即チ心臓ヲ貫キテ致命傷タリシモノナリ、其ノ他腹部以下一切異常ヲ認メズ。
依テ家婢ノ内、心利キタルモニ手伝ハセテ凝血ヲ拭イ浄メシ後、創口及顔面ニ白布ヲ被ヒテ更衣セリ時ニ午後十時三十分ナリ。
此の間午後九時四十分頃湯地定彦氏来リテ、御真影、画幅、散乱セル書類、軍服等ヲ整理サル十時十五分頃赤坂警察署長本堂平四郎氏臨検セラル。
検査記録
死体ハ正坐俯伏ノ位置ニ在リ、両下肢ハ左右相接シテ膝関節ニ於テ屈シ右上肢ハ胸側ニ沿ヒ肘関節ニテ屈シ半握リノ右手ヲ腹部ニ当テ半開ノ左手ヲ胸部ニ当ツ。
体格栄養共ニ中等、皮下脂肪組織ニ富ミ全身蒼白色ヲ呈シ諸関節未ダ強直セズ、頭部毛髪ハ黒色密生長サ二尺餘頭部ニ損傷ヲ認メズ。
顔面蒼白、両眼瞼結膜亦然リ、角膜透明、左右瞳孔散大、両耳鼻孔内異物損傷ナシ、口ハ半開シ口唇粘膜暗紫色ニシテ舌ハ歯列ノ後方ニ在リ口腔内暗赤色半流動ノ血液少量ヲ含ム。
頸部異常ナシ、胸部及手指ノ創傷左ノ如シ。
一、胸骨下端即剣尖ニ当ル部ニ長サ一仙迷深サ胸骨ニ達スル刺創アリ。
二、胸骨第四肋間ノ胸骨右縁ニ長サ一仙迷深サ右肺ニ刺入スル横行ノ刺創アリ。
三、右肋骨弓ノ上部左乳腺ノ内方ニ長サ一仙迷深サ皮下組織ニ達スル刺創アリ。
四、左胸第五肋間胸骨左縁ヨリ外下方ニ向ヒ長サ三仙迷深サ約二十仙迷心臓右室ヲ貫通スル刺創ア リ。
五、左上膊ノ前外側ノ上部ニ前内下方ヨリ後外上方ニ向フ長サ一仙迷深サ皮下組織ニ達スル刺創アリ。
六,左示指ト拇指トノ間ニ長サ四仙迷手背ヨリ手掌ニ達スル切創アリ深サ第一掌骨基底ニ達ス。
右六個ノ創傷ハ何レモ創縁鋭利ニシテ血液ヲ付着スルモ殊ニ第四創口ヨリハ半流動血液多量ヲ出 ス、是レ即チ致命傷タリシモノナリ。
背部、腹部、下肢総テ異常ヲ認メズ。
第三項に岩田の誤記と思われる箇所がある(前述)。検案書の最後にその纏めとして、いささか違和感を感じさせる検案の要領と称する記載部分がある。
検案の要領
乃木将軍ハ大正元年九月十三日午後七時四十分頃東京市赤坂区新坂町自邸居室ニ於テ明治天皇御真影ノ下ニ端坐シ日本軍刀ヲ用ヒテ先ズ十文字ニ割腹シ徐ニ夫人ノ自盡ヲ見テ軍刀ノ柄ヲ膝下ニ樹テ刀尖ヲ前頸部ニ当テ一刀ニ気道食道左総頚動脈迷走神経及第三頚椎左横突起ヲ穿刺裁断シテ左項部ニ貫キタル儘俯伏シ即時絶命セラレタルモノト推想ス。
二、 将軍ハ豫メ今日ヲ覚悟サレ十二日夜遺言条々十三日別ニ遺書辞世等ヲ認メ遺憾ナク百事ヲ了シタル後心静カニ此大事ヲ断行セラレタルモノト推定ス。
三、 夫人ハ十二日以後ニ至リテ将軍ノ死期ヲ諒知セサレ将軍ノ割腹ト殆ド同時ニ護身ノ懐剣ヲ用イテ端坐心臓部ヲ穿刺シテ其儘俯伏シ将軍ニ稍後レテ絶命セラレタルモノト推測ス。
以上の検案の要領がなぜ違和感を感じさせるのか、次項の本堂赤坂警察署長をご覧願いたい。
本堂赤坂警察署長
岩田検案書には、夫人の頚部損傷の記載はない。ところが、本堂署長は終始匕首をもってぱっと喉頭部を貫き、ついで心臓を突き刺した、と発言している。岩田も本堂もともに現場の剖検者や臨検者であるにもかかわらず、なぜ死骸の所見が違うのだろうか。既に述べたごとく、岩田検案書は上層部の指示によって何度も修正されたものである。さらに結果的に、没収、公表禁止の処分を受け、ついに日の目を見ない運命を辿らざるをえなかったものである。既述した検案書の末尾には、検案の要領と題する項目があり、事件の骨格を決定するような結論事項が、推想、推定、推測などの言葉で結ばれている。断定を避ける言葉使いが目に付く文章である。いろいろと推量の言葉を変えて文章を結んでいるなどは、虚偽への免責がこめられているようだ。一方、種々の矛盾を無視し、見事に国策に沿う形に整文化されている。矛盾点については、下記諸項において詳述する。この検案要領は、当局の事件にたいするガイドラインあるいは指針のようなものではなかったか、と考えられる。一方の本堂署長は南部藩の出身で、かねて薩長閥にたいする反骨精神旺盛な男であった。剖検所見の発表ばかりでなく、本庁の遺言書提出命令にも素直には応じていない。政府を攻撃し、民権主義を掲げる国民新聞の社会部長座間止水などと親交を結び、止水を通じて乃木事件の情報をしばしば漏洩している。検事局の召喚にも屈することなく、真相を発言しつづけた硬骨漢であった。こうした男が警察署にいたことが、事件解明に非常に役立っている。事件の翌春、閑職あるいは降格とも思われる神楽坂署に異動となっている。
うつ伏せ動作で心臓穿刺ができたか?
検案書では、夫人の遺骸は端座・うつ伏せの姿勢で心臓を穿刺していた、となっている。しかし、端座の姿勢で心臓を貫き背中まで突き通すことは、初老の夫人には不可能とする批判にたいして、公式筋は、短刀を畳みにつけそれにかぶさって心臓を穿刺した、と解説していた。しかし、体をかたむける動作にはかならず上下運動と水平運動が連動する。つまり、短刀がかならず揺れるということである。短刀が揺れれば、刃の方向に向かって大きな創縁の開大がおこる。また、乃木が手をかし背中を押すなり短刀を支えるなりしても、短刀の揺れ具合はかわらない。ところが、剖検所見では夫人の創縁は鋭利整にして余分な斬り口がないのである。ゆえに、心臓穿刺が力強い手練の手によって、つまり乃木の手によってなされたことを示している。なお、短刀の刃が外方(左)を向いていたという点も、自殺でなく他殺の根拠を濃くするものである(後述)。
遺骸の位置の不思議
死後の夫人の手の位置が胸や腹に置かれている、というのも不可思議である。いやしくも心臓を穿刺するのだから、最後まで両手でしっかり握っていなければならない。途中で手が離れるような動作だとしたら、短刀が傾いて真っ直ぐに心臓を貫通した上、背中まで突き通すような見事な穿刺創をつくることはできない。また、前述のように傷口が乱れたり一方へ開大したりする。また、先帝に殉ずるというのなら、夫人も御真影の方を向いて、つまり、将軍と同じ方向を向いて、あるいは、すくなくとも夫に顔を向け自殺するのが作法であろうに、実際は、先帝(居間の東側が御所方向)に背をむけ、夫の背をみる位置に斃れている。こうしたことも、一部にある夫人の後追い自殺説を不自然なものにしている。
剣柄ヲ巻ケル白紙
検案書には、夫人ノ剣柄ヲ巻ケル白紙ハ凝血ニ塗レタリ、とある。短刀は白紙で包まれ血液がしみこんでいたとなっているが、短刀を使って自害する時、刀身を袖口などで捲くようなことはあっても、懐紙などで捲くことは通常はしない。武士の切腹の際には、乱心を恐れ柄が外されているため、握りやすくするために白紙で捲くのである。夫人の短刀に紙が捲いてあった、という検案書の所見は、心臓を穿刺したのが他者、つまり乃木であった可能性を濃くするものである。
心臓穿刺の怪
夫人の胸に刺さった白鞘の短刀の刃は左向きであった。自分で体を刺す場合、逆手に持った短刀の刃をどちらに向けるか、一概には論ぜられないが、左手も添えられるよう刃を右向きにするのが普通である。実際に、乃木が頸部を刺した軍刀の刃は右向きとなっており、刀身の背を左手でおさえ、頸部を穿刺して自殺している。夫人の胸に刺さっていた短刀の刃が、左向きであったとすると、夫人自身というより、他者が握ったとする方が自然になってくる。これを傍証するものに女中おたかの証言がある。おたかが襖の隙間から見た時、乃木が手を洗っているように見えた、というのである。乃木が夫人に馬乗りになってその胸に短刀を押し込んでいる姿とも、あるいは心臓のかえり血をあびた手を拭いている姿とも解釈できる。おたかの証言に二転三転するところがあったようだが、誘導をともなう官憲の尋問に、少女の立場では無理からぬものがあったであろう。また、心臓を貫く見事な技は、どうしても男の手によるものとしか考えられない。手練に加え相手の動きが止まったときこそ、穿刺の技はいっそう冴えることになる。つまり、気力の弱った夫人が動きをとめ、そこに手練の男の手が加わってはじめて、為しうる見事な心臓貫通創ということになるのである。
切腹は軍刀か?,短刀か?
検案書によれば、夫人ハ将軍ノ割腹ト殆ド同時ニ護身ノ懐剣ヲ用イテ端座心臓部ヲ穿刺シ、其ノ儘俯伏シ将軍ニ稍後レテ絶命セラレタルモノト推測ス、とある。これによれば夫人は懐剣つまり短刀を使って心臓部を穿刺したことになる。ところが、両者ほとんど同時に自殺したとなると、夫人は短刀をもって心臓を穿刺し、乃木は軍刀をもって切腹したことになるが、はたして、乃木は本当に軍刀で切腹したのであろうか?
そもそも、軍刀などの長い太刀で腹を斬るのは切腹の流儀ではない。太刀では深く斬りすぎたり、そのためショックになる怖れもある。第一、スタイリストの乃木が流儀を違うはずもなく、当然、短刀を使って切腹した蓋然性の方がはるかにたかい。生前、乃木は石黒から切腹の仕方を熱心に聞くことがあった。くわえて、武士たる乃木の頭には切腹は短刀でするものという考えが定着していたはずである。検案書のごとく両者の死亡時期が殆ど同時となると、両者の凶器は一体何であったのだろうか?
検案書の要領にあるごとく、夫人が短刀をもって自殺し、乃木は軍刀を持って切腹したのだろうか。まず、夫人の心臓穿刺が初老の夫人のなしうる業でないことは、すでに述べたところである。となると、夫人を穿刺したのは乃木であり、抜き取った短刀で切腹し、ふたたび夫人の胸に刺しなおしたということなる。あるいはまた、はじめに乃木が切腹してから、夫人に短刀を渡し心臓を突かせたとする考え方もあるかもしれない。だが、くりかえし述べるが、、体力的に夫人がみずから剖検所見のような心臓穿刺創をつくることは不可能なのである。それでは、乃木が夫人の胸から短刀を抜き取って切腹したとしか考えられなくなるが、これは切腹の儀式としてはなはだ相応しからぬ所作であり、乃木のような形式を重視する男がよくなしうるところのものではない。
翌日九月十五日の読売新聞は、
・・・“嗚呼乃木大将 夫人は最初に咽喉を刺し貫きて即死し大将はその即死を見定めたる上、下着の白のボタンを外し胸を開き夫人の手より徐に短刀を取り、これをもって左の腹部より右へ横一文字に掻き切りきりたる上、更に右頚部より咽喉部にかけて気管および大動脈を切断してそのままその場に打ちふしたるもののごとく“ ・・・
と報道した。咽喉部を刺して先に死亡していた・・・夫人の手よりおもむろに短刀を取った上・・・、乃木は短刀で切腹したとする報道は、既述の推定事件経過によく合致している。ただし、夫人の咽喉切傷が即死にいたってなかったことには触れていないが、事件の真相にせまる報道であった。
ところで、夫人の後追い自殺説だが、切腹する夫の姿を目前にすることすら耐え難いのに、頚部を穿刺して大量の血液を噴出して斃れた夫の姿を見て、しかも夫がつかった短刀で自分のからだの数箇所を、切ったり刺したりできるものでは到底ない。たとえ相当の自殺覚悟があっても、気後れして実行できるものではない。また、もし本当に夫人に自殺の覚悟があったのなら、階下まで聞こえるドスンドスンという走り廻るような物音も、今夜だけは、という叫び声もなかったはずでだし、諸々のことを夫人に託す遺書の記述も不合理なことになる。
以上のようなことから、乃木が短刀をもって切腹した蓋然性が高いのである。これはまた、夫人の心臓穿刺が乃木の手によって行われたことを示すことにもなる。
精神性
乃木は幼少の頃から、引っ込み思案、積極性に乏しい少年であった。友達の嘲りを恐れ、玄関先から外に出るも入るも動きの取れない硬直した姿を父親に咎められ、意気地なしとばかり天水桶の冷水に突き落とされることもあった。小学校でも、戦闘訓練となるといつの間にか姿を消してしまうという、消極的、気弱な性格の子供であった。ゆえに、父親希次は乃木の脆弱性に大いに心を痛めていたのである。後年、名古屋鎮台大貮(名古屋副連隊長)の頃には、カンカン屋のおれい、朝日屋のおたいの二人の芸者を相手に、紅灯緑酒の放蕩生活をおくっている。この二人の芸者が、生来乃木がもつ幼児期からの、庇護をもとめてやまない心を癒していたのであろう。その後、西南戦争出陣を前にする乃木の日記にも、いささか異常を感じさせるものがある。夜毎、悪夢になやまされ、不安、恐怖にも似た微妙な心境にあったことが窺われる。おのれの情念を隠すためローマ字をつかうという、暗い性格を見せる一面もある。
・・・Ataento suru tegamio kitadate sukego wa ni ubawarto umemir mata tamakio mir 与えんとする手紙を北楯助吾(の)婆に奪わると夢みる。また、玉木をみる・・・
玉木は、萩の乱でたがいに敵味方にわかれた実弟玉木正誼のこと。
・・・Umeni yamagata kiyoto sannenni arito londu. Tokini tokiyamao mir. Nacamura kiozoo corosutomir. Mata oumeo mir. 夢に、山縣、京都・・・三年にありと論ず ときに時山をみる。中村喜代造殺すとみる。またお梅をみる。 ・・・
夢は抑圧された葛藤、願望など潜在意識の表れである。助吾の婆に何かを奪われる夢、死に追いやった弟への責罪・愛惜・悔恨の情念、中村喜代造にたいする殺意の情念などを記す一方、梅なる女性への恋情など、出陣前の乃木の心情には、不安、恐怖、愛憎などの複雑な葛藤が秘められている。何かにしきりに怯える心理状態が垣間みられる。このような乃木の状況を聞いた山縣は、
・・・近頃の乃木は何かびくついているようだ、乃木にはそんなところもあったのかね ・・・
と、乃木の先輩でもあった副官福原大佐に漏らしている。軍旗を奪われることになる出陣前の精神不安が読みとれる。
戦後、軍旗を失ったことを恥じた乃木は、熊本城内の宿舎で腹を切ろうとするが、かねて自殺を警戒する児玉源太郎(熊本鎮台参謀、中佐)に発見され、叱責されている。一夜をあかした翌日姿を消した乃木は、三日にわたる鎮台兵の捜査によって、ようやく熊本近郊天王山の山頂で餓死寸前の姿で発見された。自決できないままいたずらに三日を過ごしていたことになる。
また、願って出陣した日露戦争でも旅順攻略に苦慮するや、指揮不能の状態となって寝込んでいる。秦野医師の診察を受け、翌日、戦闘指揮所にもどってはいるが、食欲をなくし衰弱がはなはだしかった。参謀たちがミルクの調達に走り、栄養の維持に努めなければならなかった。
以上は 乃木のほんの一端を垣間見ただけだが、そこには両極端に揺れ動く不安定な情動が読み取れ、そこに、何かに庇護を求めて止まない依存性と強い顕示性が混在していることがわかる。 自殺にあたっても、前日の遺書を認めている時の乃木は、妻を残し悠然と死につく顕示性の姿を演じている。だが、直前になって突如庇護を求めてやまない依存性の姿に変貌してしまった。明治帝の崩御によって庇護を求める対象が夫人へと代わっていたことを、おそらく乃木自身も自殺の直前まで気がついていなかったのであろう。気がついた時、庇護を求めてやまない依存性の資質が、夫人を道ずれにするという予想外の行動へと走らせることになった。
辞世の句は偽物か?
乃木の辞世の句は、
・・・うしつ世を 神さりましし 大君の みあと志たひて
我はゆくなり ・・・
と、はっきりと明治帝のあとを追うと詠っている。これに反して夫人の方は、
・・・出てまして かへります日の なしときく
けふの御幸に 逢うそ悲しき ・・・
と、明治帝の死を悲しむ詩情はこめられているが、みずから殉死する覚悟は微塵もみられない。従来、この夫人の辞世と称するものは、本当に夫人自身の作かどうか疑われている。乃木に促されるままに書かされたもので、自殺を覚悟した夫人の辞世の句ではない、とする見方が正しいのではないか。
次間の乱雑
事件の現場となった居間につづく次間はまことに奇妙な状況であった。
六畳の座敷に画仙紙半切五、六枚、全紙一枚が散乱し、直前に使ったと思われる水を残す大硯と筆がおかれ、畳んであったらしい数着の軍服が乱れ散っていた。画仙紙が散乱したのは乃木が倒れた際の風によるた可能性もなくはないが、あいだに二メートルの間隔があり、斃れた方向も逆である。だが、紙片はともかくとして、軍服まで乱れ飛ぶとなると、部屋で激しい動きがあったことになる。
居間で二人が従容として自殺したのであれば、こうした散乱状態が起こるはずがない。馬場サダ子や女中らが聞いたドスン、ドスンという床を踏み鳴らす音や夫人の叫び声などは、厳粛であるべき自決を前に起こりえないもので、乃木と夫人の間で駆け廻るような乱闘があったことを推定させる。
そもそも、自殺を決意する者が昼過ぎから五、六時間以上にわたり、少なくとも一本以上のブドウ酒を飲み干すということ自体、切腹の流儀に適うものではない。それでなくとも乃木の酒乱は若い時から有名で、酒席での喧嘩も少なくなかった。自殺覚悟の夫への妻の配慮もあったろうが、これが事件の呼び水となった可能性は否定できない。
致死傷以外の複数の傷 腹、左手、上腕など,自殺者に可能か?
自殺の線をかぎりなく遠ざけるのが、これから述べる夫人のからだに残る複数の傷である。致命傷の可能性となるのは、気管切開を伴う頚部切傷、背中まで貫通する心臓穿刺創の二つである。本来、この二つの傷は、自殺者に共存しえない傷である。ゆえに、検案書では頸部損傷の記述が削除されてしまっている。しかし、多くの傍証から頚部損傷のあったことは疑うべくもない事実である。
かりに、夫人が自殺したと仮定して検証してみることにする。当然のことながら、心臓貫通創をつくってから頚部を切ることはできない。心臓貫通では即死している。したがって、順序としては先ず頚部損傷が先ということになる。 女子が頚部を損傷して自殺する場合、切るのではなく穿刺するのが一般である。仮に切傷であったとしても、頚動脈を切断するため側頸部に刃を当てるのが普通である。ところが、夫人の傷は前頸部を横切して気管を切開している。これは自殺方法としてはまず考えられない。いたずらに苦痛をもとめるだけとなり、即死するケースは少ない。もとより、気管切開をしてから心臓穿刺をしたと考えることは論外である。
心臓穿刺の創口が鋭利かつ創縁の不整もないことから、既に説明したように、うつ伏せ動作による心臓穿刺の可能性はない。また、初老の女性が自ら心臓をこえ背中まで貫通するような穿刺ができるはずもない。
つぎに腹部の三箇所の穿刺創を考えてみる。二つは刀尖だけでできた浅い傷だが、一つは右肺に達する深手である。失敗したために複数の傷をつくった、とする考えもありえないことではないが、女性が自殺するのに、まず、腹から始めるということは通常では考えられない。ましてや、失敗したからといって、穿刺を三度もやりなおすに至っては論外というべきであろう。つまり、腹部の傷はいずれも自殺行動によったものではなく、乃木の手になるものということになる。さらに決定的なのは、左の拇指と示指の間に、骨まで達する四センチにわたる切傷のあることである。ためし傷でこれほどの深傷をつくることはまずない。袖の裂けた二の腕にもかすり傷が存在するが、袖の上から試し傷をつくることもありえない話である。したがって、これらの傷は他者がつくったものと断定せざるをえない。つまり、乃木が突き出した短刀を受け止めようとした夫人の左手に、骨まで達する切傷をつくった上、さらに流れた刀尖が二の腕の袖を破り擦過傷となった、ということになる。
むすび
事件前夜に遺書を認める時、乃木はたしかに一人で自殺するつもりであった。したがって、夫人にも遺書の内容を見せ、夫人の健康への配慮をも忘れず、後事万端を依頼するとともに、夫人がかねて希望する中野への住居移転も了承するなど、そこに悠揚せまらぬ乃木の姿があり、乃木の顕示性がつよく現れていた。
事件当日の午前の参内後、二人は居室に閉じこもっていた。永遠の別れを惜しむ夫婦の語らいであったろう。乃木はブドウ酒の杯を重ね、夫人はこれに仕えていた。
ところが、こうしている間に事態は急変するのである。乃木の生来の情動の乱れが顕在化したと思われる。かれの精神性の根幹にある脆さ、依存性の情動が露わになってしまった。いままでは明治帝へのひたむきな忠節という情動が、乃木の心にある種の均衡を保たせていた。明治帝の崩御によって失われた今、生来宿るこの依存性の情動が夫人に向けられることになった。乃木自身もおそらく直前まで、その変化に気づいていなかったろう。この情動変化が夫人の同道を執拗に口説かせることになった。だが、夫人の強固な拒絶の姿勢が、乃木の内に秘める独善的・依存性の情動をさらに高ぶらせ、狂わせていったに違いない。階下の家人は、今夜だけは、という夫人の鋭い声を聞いている。おそらく、今夜だけはあなたのいうことでも聞けません、という夫人の激しい拒絶の言葉であったろう。 乃木は夫人の意思が硬いとみるや、ブドー酒をとりに階下に行かせ、その間に夫人所蔵の短刀を探しだし隠し持った。そして夫人が戻ってくるや、矢庭に短刀の突きを入れ胸部に数箇所の傷を、さらに逃げる夫人を追って短刀を振り回し、頚部を横切,気管を切り開く傷をあたえた。夫人は居間から次間の間を逃げ回った。このときの騒ぎが階下にドスン、ドスンという音を聞かせた。やがて、夫人は力尽きて居間で倒れた。乃木はおもむろに短刀をもって切腹の所作をみずからにほどこし、居ずまいを改めた。この時、妹静子のあえぎ声を聞いた姉サダ子は、”静子は死にやった!”と叫ぶことになった。
乃木は、まだ苦悶状態で死に切れずにいる夫人の心臓を一気に穿刺した。それから、夫人の傍らに膝立すると、右頚部に軍刀の刀尖をあてて体をかぶせた。
あとがき
乃木希典の出版物は非常に多い。有名作家から大学教授まで、あらゆるジャンルの物書きが筆を下している。しかし、筆者が知るかぎり、乃木の精神性を鋭く暴き、夫妻自殺が到底真実でありえないことを、論証しているものはすくないように思われる。とかく、上滑り、抽象的、文学的修辞で形を整えることに重きをおくあまり、真実がぼやけてしまうようなものは、歴史や事実を扱う上で好ましいことではない。文学的修辞や詩人的情感のオブラートにつつまれ、真実をむき出そうとする強い意志を欠くものであったとしたら 、読者に誤った情報を与えかねない。ごまかしの史実を残す罪は大きい。乃木を書くにその精神的バックボーンの解明は不可欠と思われる。乃木の人生にみられる行動、心理状態は尋常ではないのである。これらを医学的に解析することによって、乃木の人間像が一層鮮明に浮かんでくるであろう。
乃木の幼少期には、自閉症に近い姿を思わせるものがあり、青年乃木の名古屋遊郭での行動はまさにアンビバレンスそのものである。乃木の先天的資質・情動を解明にすることによって、より一層鮮明に夫人殺傷の蓋然性が浮かび出てくると思う。
乃木夫妻の死には多くの国民が心から哀悼と敬意の念をいだいた。筆者も、国民小学校の先生から話を聞いた時、目頭に涙し鼻を詰まらせたものであった。そして、乃木将軍の忠烈無比の殉死の話は、筆者の胸に今日まで焼きついて離れることはなかった。だが、知らぬまに戦争の道をひた走る、風に流される少年になっていた。英語にひときわ堪能な兄は米潜水艦の魚雷にやられ海に沈んだ。その兄を追った次兄も死んだ。にもかかわらず、一年さきの特攻隊志願を夢見る軍国少年となっていた。
歴史のひきずる虚構の影響は大きい。虚構の歴史はまた虚構をつくり、言論統制や言論弾圧が強化される。乃木事件もその後の日本の進路を作った歴史の一つであった。国民のあるべき姿としての乃木像、忠節を尽くすに殉死をもってする乃木夫妻像が、日本国民の範となり国家の指針の一つとなったことは否めない。そのため、乃木事件の真相は封印され、勇躍死地に赴く忠勇従の国民性を醸成する思想誘導に利用されていた。国民も幻の栄光を夢見る、危険な覇権主義の道を歩くようになっていた。したがって、乃木の遺志であった乃木家断絶も、伯爵号の辞退もあってはならないものであり、ましてや事件の真相は永久に封印さるべきものであった。
歴史歪曲の引きずる影響のけっしてすくなくないことを、今日われわれは識るのである。
参考図書
乃木将軍及夫人死体検案始末並に遺言条々 岩田凡平 乃木将軍遺徳顕彰会一九三六年
あの事件の思い出を語る 森田英亮 金星社 一九三九年
病跡学・史学秘談 玉丸勇 金剛出版 一九八四年 乃木の日記 和田俊雄 金園社 一九七〇年
人間乃木希典 戸川幸夫 学陽書房 二〇〇〇年
殉死 司馬遼太郎 文芸春秋 一九七八年
乃木希典の謎 前川和彦 現代史出版会 一九八一年
乃木希典の妻 斉藤鹿三郎編 目黒書房 一九一三年
人間乃木 将軍編・夫人編 宿利重一 春秋社 一九三一年
乃木希典 宿利重一 春秋社 一九四一年
乃木静子 宿利重一 春秋社 一九四一年
日露戦争史 神戸務 尚文社 一九〇六年
日露戦争 戦記クラシックス 近現代史編纂会編物往来社 二〇〇三年
日露戦争 明治人物列伝「時代と人物」研究会徳間書店二〇〇五
日露戦争史20世紀最初の大国間戦争 横手慎二中公新書二〇〇五年
陸軍軍大将伯爵乃木希典卿逸話 山田龍雄 陸軍士官学校高等官集会所 一九二七年
乃木希典 玉丸勇 診断日本人 宮本忠雄 高陽堂 一九七四年
乃木希典 桑原巌 中央乃木会 一九九〇年
赤穂義士・乃木将軍 切腹実話
西村豊講述 成蹊堂 一九一五年
切腹 日本人の責任の取り方 山本博文 光文社新書 二〇〇三年
大正ニュース事典第一巻 大正一年―大正三年 国会図書館蔵
関連各新聞 大正元年九月 国会図書館蔵
乃木希典殉死 毎日コミュニケーション出版事業編 一九八六年
伊藤戯遊全集 第五巻 伊藤戯遊 平凡社 一九二九年
乃木希典殉死以後 井戸田博史 新人物往来社 一九八九年
検証乃木希典 大坪雄三 日本医事新報自四二〇六号―至四二〇九号二〇〇四年(十二月)
明治天皇 上・下 ドナルド・キーン角地幸男訳 新潮社 二〇〇一年
明治天皇 苦悩する「理想的君主」 笠原英彦 中公新書 二〇〇六年
乃木希典 福田和也 文芸春秋 二〇〇四年
静寂の声 上・下 渡辺淳一 文芸春秋 一九九一年
代表的明治人 乃木希典の虚像と実像 池田諭 徳間書店一九六八年
西南戦争従軍日記 下関文学館 一九八三年
藩史大辞典 第六巻 中国・四国編 雄山閣出版 一九九〇年
華族 近代日本貴族の虚像と実像 小田部雄次 中公新書二〇〇六年
事件と犯罪大辞典 東京法学院出版 二〇〇二年
筆 者
大坪雄三 [email protected]
昭和六年(一九三一年)東京生まれ
昭和三〇年千葉大学医学部卒業
昭和三五年千葉大学医学部大学院修了、医学博士
米国カンサス大学医学部心血管外科フェロー、
千葉大学医学部講師、開業
著書
胃疾患の診断と治療 医学書院 一九六八年(昭四三年)
ビジネスマンの健康戦略 グラフ社 一九八七年
清盛の死 文芸春秋(随筆)一九九一年・十一月号
文芸春秋・長寿と健康・臨時増刊号 二〇〇一年一二月号
英雄たちの臨終カルテ 羽衣出版二〇〇一年
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